なく両の肘を突っ張って顔を枠の上にのめりこませて通している。わたくしの眼は、一瞬、その位置に寿女さんを視て、はっと弾んだ。くるっとしたその眼射しで、こちらをみて、にっこりしながら癖の、あぶらのしみた髪に針をちょいちょいとなすりつける。いまにも立って来るかと待たれるその気振りは、しかし、つぶつぶの汗を光らせた新参の弟子がこちらを見て、針の手をおいて辞儀をしたのであった。
「梅雨《つゆ》前から感冒にかかっていたようだが、抑えていたとみえて、とうとう肺炎でね」
師匠はこう言うて湯ざましの湯を緩っくりと急須へ注ぎ入れた。
机の上の写経へわたくしは眼をやった。その経文のくだりは般若心経のようでもある。先刻の銀三の沈んだ物言いを思い合わせて、わたくしにはだんだん寿女さんの訃が現実感をもって迫ってくる。写経に至るまでの師匠の心の裡も漸う汲まれて、筆差しにささった筆のまだ墨の乾き切らぬ穂先を眺めているうちに、不意に、哀感がそこから衝いてきた。
隣りの喫茶店からレコードのブルース調の唄が鳴り出した。
「きょうはまたひどく照りつける……」
師匠は顔をさしのべて空を覗いた。此方の低い板塀を越して隣家の亜鉛庇がはみ出している。その照りかえしが縁の青簾をとおしてきつく来る。師匠は茶を啜り了えると立って、勝手元から水の張ったバケツを下げてきて、湯帷子《ゆかた》の裾をからげて濡れ縁のところから庭へ水を打ちはじめた。
庭というても四坪たらず、紅葉の木に桃葉珊瑚《あおき》が二本、手水鉢の水落ちのきわにも手入れの届いた葉蘭のひとむらがあって、水に打たれ染め上げたばかりの緑の色艶は眼にしみるよう、したたり落ちる雫のはずみをうけて葉が微かに揺れている。師匠は、軒のしのぶ[#「しのぶ」に傍点]を取りはずして其処にしゃがんで、わずか残ったバケツの水で丹念に葉を洗い、葉のへりが黄色く闌《すが》れたようになっている分を眼鏡を寄せて検べ見ながら、指さきで丁寧に撮みとっていられる。
おもて格子の開く気配がして、取り次ぎに出た銀三が、
「三昧堂さんがお誂えを届けに参りました」と、うこん色の大風呂敷にくるんだものを差し出した。
師匠は、しのぶ[#「しのぶ」に傍点]を軒に吊して雑巾で足を拭き了えると裾をおろして入って来られた。
「こんどはお叱り頂かないように材料のほうも充分に吟味致しましてございますが、へえ…
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