がして足を停めかけたが、思いかえして、隣家の師匠宅を訪うた。
銀三が出っ歯をむき出しにして迎えて、師匠は只今お写経でございますが、と言う。簾屏風ごしに、机を前に端然と坐していられる後ろ姿が見える。上り框に腰をおろして銀三のすすめる冷えた麦茶で喉を潤しながら一別以来の挨拶を小声で交わしあった。栃木在出身の銀三は、師匠を慕ってここの内弟子に住みこんでから、もう、十数年にもなるのであった。
「お師匠さんが、もういい加減に独り立ちしてみたらどうか、って仰言って下さいますが、なんせ、まだまだ心許なくて、こうやって玉子の殻をくっつけたまんまお傍にぬくもっている始末です」
銀三は奥へ気を兼ね、声を低めて、なお重ねた。
「わたしは生れつき不器用な質《たち》でして、連之助さんや寿女さんの足もとにも寄れないんですから、あの人たちの二倍は年季を入れなけあ駄目だと思っているのです。寿女さんといえば、あのひとも、まあ、折角の手をもちながら惜しいことになりまして……」
妙に鼻づまった沈んだ声音にふと衝かれて、わたくしは「え」と問いかえした。この時、奥から声がかかったので、銀三は座をひき、招じ入れられてわたくしは上へ通った。
加福の師匠は写経の筆をおいて机から離れたところであった。眼鏡のぐあいをなおしながら、
「この頃は、こんなものに頼らんと筆もつことも針もつことも出来んようになった」
と、ひっそりと笑われた。眼性のよさを誇っていられただけに、その眼鏡に負けた面《おも》は佗しく見えた。
師匠の写経をみかけるのは初めてのことだったし、そのことから妙に心が急き立てられるまま尋ねた。
師匠は、しばらく黙していられたが、
「寿女さんが亡くなられたのを御存じなかったかな」
そして、また、しばらく黙された。
「あさってで七七忌になる、早いものだ……」
自身へきかせる独り言のようである。銀三のはこんできた茶盆を引き寄せ、湯かげんをさしのぞいて、茶の支度にかかられた。
わたくしは寿女さんの訃を信じかねて、そのことをもう一度たしかめてみたく師匠を見遣ったが、もの恬《しず》かなその姿には声をかけるさえ臆せられた。隣室の銀三を見ると、長い枠を前にして一心に針をとおしている。それと並んで年少の弟子が二人、ひとりのほうはわたくしには新顔であった。鼻の頭に汗のつぶつぶを光らせて、針の持ちようもまだぎごち
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