ことがある。京都に本店をもつこの大|店《だな》の帯安では余程以前から師匠を口説きおとすのに骨折っているようであった。この帯安のほかに袋物専門の鈴仙商店と京橋の老舗玉井屋あたりの番頭なども根気よく未だに通いつめているようである。併し、師匠は、いわゆる「お店《たな》物」仕事をこれまで引き受けた例しがなかった。「お店物」で制限をつけられてしまうと針がまるで利かなくなってしまうと言われる。この時も、帯安の番頭のひっきりなしの京訛りに耳を藉しながら師匠は徐かに茶を啜って居られた。いつまでも茶碗を口から離さずにいるのは、この番頭の饒舌に相槌をうつことさえ避けていられるようにみえる。お喋りがちょっと途絶えたところで師匠は茶碗をおいて、
「折角ですが……」と言った。なお執拗に番頭は続けたが、師匠はこの言葉をくりかえしているだけであった。
 当節は刺繍する者も柄がおちて、自分から店《たな》に出かけていって仕事を頼みこむという風だが、これでは好んで技を堕すというものだ、と師匠は折にふれてこう歎かれる。技を売ることにばかり切で、技を磨くことに念を凝らすひとが稀になった、と歎かれるのである。むかしは齢六十にして尚ひとの徒弟として技を練ることを道と教えられていたが、当今は年季もまだ明けないうちからもう店《たな》出入りのことを考えている。世智辛い世のゆえとは言い条、このような人たちの世に送り出されるのは怖ろしいことだ、粗笨《そほん》な仕事と誰れの眼にも分っていながらも、これがこの節繍の域内を大手振って歩いているのは怖ろしいことだ、と歎かれるのである。
 師匠の口から賞め言葉をきくことは滅多になかった。ずっと以前、弘前から繍の道を修めに出京した相馬という人の仕事を稀らしく師匠は賞めたことがあった。この相馬氏も軈て立派に一家をなして業界に重きをなす人となったが、惜しいことに先年病歿されてしまった。業界では「賞めない人」として加福の師匠は通っているし、その烈しいまでの潔癖な眼識を「旋毛曲り」としてみていた。ひとつには、その潔癖さが己れの技へ向ける厳しさとなり、「お店物」を撥じき切る頑なさとなり、なおまた、独りの清貧を守り通してきたそのことにも通じているとみえる。その頑なさ、その片意地な程の潔癖さを世間の眼は「旋毛曲り」とみていた。
 師匠のその潔癖さは、そのまま徒弟を孚《はぐく》むうえでの鞭ともなり
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