「どうもあゝ云ふ代物を君に返すのは、惜しいやうな気がするね。」ドユパンはかう云つた。
 水夫は答へた。「それはお骨折をして下すつただけのお礼はしなくてはなりません。大した事は出来ませんが。」
 ドユパンは云つた。「成程。そこで、まあ、わたしに考へさせて貰はなくては。幾ら貰つたものかね。わたしの方からいづれ幾らと切り出さなくてはなるまいが、それより先に君に聞きたいことがある。君、あの病院横町の人殺事件をこゝですつかり話して聞かせてくれ給へ。」
 ドユパンはこの詞の後の半分を小声でゆつくり言つて、徐《しづか》に立つて戸口に往つて鑰《ぢやう》を卸して、鍵を隠しに入れた。それから内隠しに手を入れて拳銃を出して、落ち着き払つてそれを卓の上に置いた。
 水夫の顔は忽ち真つ赤になつた。水に溺れさうになつた人の顔のやうな表情である。さうして跳り上がつて槲の木の杖を持つて身構をした。併しそれはほんの一瞬間で、水夫は忽ち又死人のやうな蒼い顔になつて、身を震はせながら椅子に腰を卸した。己は側で見てゐて、心《しん》から気の毒になつた。
 その時ドユパンは優しい声で言つた。「君、何もそんなに心配しなくても好い
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