ッる虞《おそれ》はないからね。仮に猩々を逃がした男がゐるとして、その男がマルタ航海会社の水夫でなかつたら、其男は僕が何か聞き違へたものだと思ふだけの事だ。若し又僕の推測が当つたとすると、大いに、こつちの利益になる。なぜと云ふにそれだけの事が分かつてゐると思ふと、その男がこゝまで出向いて来るのに来易いのだ。無論その男は自分で人を殺さないまでも、殺人事件に関係してゐるのだから、広告の場所へ猩々を受け取りに来るには躊躇せずにはゐられない。まあ、こんな風に考へるだらう。己は罪を犯してゐない。己は貧乏だ。あの猩々は随分金になる代物で、己の身分から見れば一廉《ひとかど》の財産だ。それを余計な心配をしてなくさないでも好い。どうにかして取り戻したいものだ。広告で見ると猩々を生捕つたのがボア・ド・ブウロニユだと云ふ事だ。さうして見ると人を殺した場所からは大分距離がある。それに智慧のない動物があれ程のことをしようとは誰だつて容易には考へ付くまい。警察もまるで見当が付いてゐないらしい。よしや動物の為業だと分かつたところで、己が現場を知つてゐると云ふことを証明するのがむづかしからう。広告で見ると動物を生捕つた人は己を知つてゐて、己が猩々の持主だと認めてゐる。己の身の上に就いてどれだけの事を知つてゐるのだか知らぬが、己の物だと分かつてゐる猩々を、あれ程の高価の物なのに、わざと受け取りに行かなかつたら、却て嫌疑が己に掛かるかも知れない。兎に角あの猩々や己の事に就いて、世間が穿鑿をし出すと面倒だ。それよりか素直に猩々を受け取つて来てしつかり閉ぢ籠めて置いて、あの血腥い事件の上に草が生えるまで待つに限る。まあ、こんな風に考へるだらうと思ふよ。」
ドユパンがこゝまで話した時、梯子を登つて来る足音がした。
「君、その拳銃を持つてくれ給へ。併し僕が合図をするまで出して見せては行けないよ。」ドユパンがかう云つた。
家の第一層の門口は開いてゐたので、来た人はベルを鳴らさずに這入つて、第三層まで梯子を登つて来た。それから我々のゐる室の外の廊下に来て、暫く立ち留まつてゐた。その内又梯子を下りる足音がした。ドユパンは忙しげに戸口へ出ようとした。その時足音は又梯子を登つて来るやうに聞えた。今度は猶予せずに戸の外まで来て戸を叩いた。
「お這入りなさい」と暢気らしい大声でドユパンがどなつた。
這入つて来た男は水夫
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