と被布団《きぶとん》との間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀《かはい》がられる若いものにはと、主人は云つた。
 女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら/\と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火《ともしび》になつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果《いちぢく》の一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。
 主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多《あまた》の鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。尤《もつとも》当時の己の意識は此驚きをもはつきり領
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