た時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間|過《た》つた。
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
 トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の隙《すき》から黒い水の面《おもて》に落ちてゐる明りの外には、町ぢゆうに火の光が見えなくなつてゐる。遠い礼拝堂で十五分毎に打つ鐘が、銀《しろがね》の鈴のやうに夜の空気をゆすつて、籠を飛んで出た小鳥の群のやうに、トビアスの耳のまはりに羽搏《はう》つ。次第に又家々に明りが附く。水の面に小さい星のやうにうつる燈火《ともしび》もある。そのうち冷たい、濁つた、薄緑な「暁」が町の狭い巷《こうぢ》を這ひ寄つて来る。
 その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度|飼場《かひば》で羊の子が啼くやうに。
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人では
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