イイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。
プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを脱《はづ》した。そして嚢の中から目金入と編みさしの沓足袋《くつたび》とを取り出した。さて鼻柱の上に目金を載せて、編み掛けた所に編鍼を插して、ゆたかに炉の傍に陣取つた。婆あさんは編物をしながら、折々目金の縁の外から、リイケを見てゐる。リイケは不安らしく部屋の内を往つたり来たりして、折々我慢し兼ねてうめき声を出してゐる。
婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。「しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、甘《あま》い、牛乳と卵とのあぶくを食べながら、ワイオリンの好い音《ね》を聞くのださうだが、まあ、それと同じ心持がするのだからね。」
トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内
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