駆落
ライネル・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)贄卓《にへづくゑ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今|転《ころ》ばうとした梯子段を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)黒い※[#「※」は「木へんに解」、278−上−13]《かし》の木

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)時計がこち/\と鳴つてゐる
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 寺院は全く空虚である。
 贄卓《にへづくゑ》の上の色硝子《いろガラス》の窓から差し入る夕日が、昔の画家が童貞女の御告《おつげ》の画にかくやうに、幅広く素直に中堂に落ちて、階段に敷いてある、色の褪めた絨緞を彩つてゐる。それからバロツク式の木の柱の立つてゐる、レクトリウムを通つて、その奥の方に行くと、段々暗くなつて、そこには煤《すゝ》けた聖者の像の前に点《とも》してある、小さい常燈明が、さも意味ありげに瞬《またゝき》をしてゐる。それから一番奥の粗末な石の柱の向うは真の闇になつてゐる。
 そこに二人は坐つてゐる。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着てゐる薄い茶色のジヤケツを、分厚に出来た、黒い※[#「※」は「木へんに解」、278−上−13]《かし》の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるやうにして坐つてゐる。娘の被つてゐる帽子の薔薇の花が、腰を掛けてゐるベンチの背中の木彫の天使の腮《あご》をくすぐると見えて、天使は微笑《ほゝゑ》んでゐる。
 フリツツといふ高等学校生徒は、地の悪くなつた手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握つてゐるやうに、柔かに、しかもしつかり握つてゐる。
 フリツツは好い心持に、現《うつゝ》の夢を見てゐる。大方今に己達のゐるのを知らずに、寺院の戸を締めるだらう。さうしたら己達は二人切りになるだらう。夜になつたら化物が出て来さうだなどと思つてゐるのである。
 二人はぴつたり身を寄せ合つた。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでせうか。」
 かういふと同時に、二人はいづれも悲しい事を思ひ出した。娘の思ひ出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしてゐる窓の下の座である。そこから
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