樺太脱獄記
コロレンコ Vladimir Galaktionovick Korolenko
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)為事《しごと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|一色《ひといろ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)見※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《みのが》して

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちよい/\と、

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)「〔DIE FLU:CHTLINGE VON SACHALIN.〕」
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     一

 己はこのシベリア地方で一般に用ゐられてゐる、毛織の天幕の中に住んでゐる。一しよにゐた男が旅に出たので、一人でゐる。
 北の国は日が短い。冷たい霧が立つて来て、直ぐに何もかも包んでしまふ。己は為事《しごと》をする気になられない。ランプを点《つ》けるのが厭なので、己は薄暗がりに、床《とこ》の上で横になつてゐる。あたりが暗くて静かな時には、兎角重くろしい感じが起るものである。己はせうことなしに、その感じに身を委ねてゐる。さつきまで当つてゐた夕日の、弱い光が、天幕内の部屋の、氷つた窓から消えてしまつた。隅々から這ひ出して来たやうな闇が、斜に立つてゐる壁を包む。そしてその壁が四方から己の頭の上へ倒れ掛かつて来るやうな気がする。暫くの間は、天幕の真ん中に据ゑてある、大きな煖炉の輪廓が見えてゐた。この煖炉が、己の住んでゐるヤクツク地方の人家の、極まつた道具で、どの家でも同じやうな、不細工な恰好をしてゐる。その内広がつて来る闇が、とうとう煖炉を、包んでしまつた。己の周囲《まはり》は只|一色《ひといろ》の闇である。只三個所だけ、微《かす》かに、ちらちら光つてゐる所がある。それは氷つた窓である。
 何分か立つたらしい。何時間か立つたらしい。己はぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲つて来るのに身を任せてゐた。己の興奮した心は際限もない、広漠たる山や、森や、野原を想像し出す。それが己を、懐しい、大切なあらゆるものから隔てゝゐるのである。その懐しい、大切なものは皆|疾《と》つくに我が物ではなくなつてゐるが、それでもまだ己を引き付ける力を持つてゐる。
 その物はもう殆ど見えない程の遠い所にある。殆ど消えてしまつた希望の光に、微かに照らされてゐる。そこへ、己の心の一番奥に潜んでゐる、抑へても、抑へても亡ぼす事の出来ない苦痛が、そろそろ這ひ出して来て、大胆に頭をもたげてこの闇の静かな中で、恐ろしい、凄《すご》い詞を囁く。「お前はどうせいつまでもこの墓の中に生きながら埋められてゐるのだ。」
 ふと天幕の平たい屋根の上で、うなる声のするのが、煙突の穴を伝つて、己の耳に聞えた。物思に沈んでゐた己は耳を欹《そばだ》てた。あれは己の友達だ。ケルベロスといふ犬だ。それが寒さに震ひながら番をしてゐて、己が今どうしてゐるか、なぜ明りを点けずにゐるかと思つて問うて見てくれたのだ。
 己は奮発して起き上がつた。どうもこの暗黒と沈黙とを相手にして戦つてゐては、とうとう負けてしまひさうなので、防禦の手段を取らなくてはならないと思つたからである。その防禦の手段といふのは、神がシベリアの天幕住ひをしてゐるものに授けてくれたものである。火である。
 ヤクツク人は冬中煖炉を焚き止めずにゐる。それから西洋でするやうに、煙突の中蓋を締めるといふ事はない。併し己は中蓋を拵へてゐる。その蓋は外から締めるやうになつてゐるのでその都度己は天幕の屋根の上に登らなくてはならない。
 天幕の外側には雪を固めた階段が、屋根際まで付けてある。己の天幕は村はづれにあつて、屋根の上からはその村の全体が見渡される。村は山々に取り囲まれた谷間に出来てゐる。不断はこの屋根から村の天幕の窓の明りが見える。移住して来たロシア人の子孫や、流されて来た韃靼人《だつたんじん》の住ひである。けふは霧が冷たく、重く地の上に下りてゐて、少しの眺望も利かないので、不断見える明りが一つも見えない。只屋根の真上に星が一つ光つてゐる。それもどうしてこの濃い霧を穿《うが》つてこゝまで照らしてゐるかと、不思議に思はれる位である。
 どの方角もしんとしてゐる。河を挾んでゐる山も、村の貧しげな天幕も、小さい会堂も、雪を被つてゐる広い畑《はた》も、暗く茂つてゐる森の縁も、皆果てのない霧に包まれてしまつてゐる。己は屋根の上に立つてゐる。広い広い大洋の中の離島《はなれじま》にゐるやうな気がする。只側に粘土《ねばつち》で下手に築き上げた煙突が立つてゐて、足の下に犬が這ひ寄つてゐるだけである。物音がまるで絶えて、どこもかしこも寒くて気味が悪い。夜が沈黙して、世界に羽を広げてゐるのである。
 ケルベロスがうなつた。多分ひどい寒《かん》が来さうなので、嘆いてゐるのであらう。犬は体を己の足に摩り寄せて、鼻端《はなつら》を突き出して、耳を立てて、闇の中に気を配つてゐる。
 突然犬が耳を動かして吠えた。己も耳を欹てた。暫くは何も聞えなかつた。その内静寂を破つて、或る音が聞えた。又聞えた。あれは馬の蹄の音である。まだ遠い畑の上を歩いてゐるらしい。
 あの音の工合で察するに、馬に乗つて歩いてゐる人間はまだ二ヱルスト位隔たつてゐる筈だ。己はかう思つて雪の階段を踏んで降りた。顔を剥き出しにして一分間この寒い空気に当つてゐると、頬か鼻かが凍《こゞ》えてしまふ危険がある。犬も、蹄の音の聞える方角へ向いて吠え続けながら、己に付いて降りて来た。
 間もなく焚き付けた薪《たきゞ》が煖炉の中で燃え始めた。その薪を兼ねて煖炉の中に積み上げてある薪の山に近寄せると、部屋中の摸様が、今までとはまるで変つて来る。ぱちぱちいふ音が、天幕の沈黙を破る。幾百条の火の舌が薪の山の間々を潜つて閃き昇つて行く。その勢で例のぱちぱちいふ音がするのである。兎に角或る生々したものが飛び込んで来て、部屋の隅々まで荒れ廻るやうな気がする。折々ぱちぱちが止むと、煙突の口から寒空へ立ち昇る火の子のぷつぷついふのが聞える。
 間もなく薪の山のぱちぱちが一層劇しく盛り返して来て、とうとう拳銃をつるべ掛けて打つやうな音になる。
 もう己もさつき程寂しい心持はしない。己の周囲《まはり》の物が、何もかも生き返つて、動き出す。踊り出す。さつきまで外の寒さを微かに見せてゐた窓硝子《まどガラス》が、火を反射してあらゆる色に光つてゐる。あたりが一面に闇に包まれてゐる中で、己の天幕が光り赫いて、小さい火山のやうに数千の火の子を噴き出すと、それがちらちら空気の中を踊り廻つて、とうとう白い煙の中で消えるのである。己はそれを想像して好い心持がしてゐる。
 ケルベロスは煖炉の正面に蹲《うづくま》つて白い色の化物のやうに、ぢつと火を見詰めてゐる。折々振り返つて己の方を見る、その目には感謝と忠実とが映じてゐる。
 どこかで重々しい足音がした。併し犬はぢつとしてゐる。それは飼つてある馬だといふ事を知つてゐるからである。今までどこか屋根の下で、首を頂垂《うなだ》れて寒さにいぢけてゐるのが、煖炉が温まつたので、火に近い方へ寄つて来て、煙突から出る白い煙の帯と、面白く飛び廻る火の子とを眺めてゐるのであらう。
 その内犬が不満らしい様子をして吠えて、直ぐに戸口へ歩いて行つた。己は戸を開けて出して遣つた。犬はいつもの番をする場所で吠えてゐる。己は中庭を覗いて見た。さつき遠くに蹄の音を響かせてゐた人間が、己の天幕の火の光に誘はれて来たのである。丁度今門を開けて、鞍に荷物の付けてある馬を引き入れてゐる所である。
 知人《しりびと》でない事は分かつてゐる。ヤクツク人はこんなに遅くなつて村に来る筈がない。よしやそれが来たところで、同じ種族のものの所へ寄るに違ひない。火の光を当にして、己のやうな外国人の天幕へ来はしない。
「どうしても移住民だな」と己は判断した。そんなものの来るのはいつもなら難有くはない。併しけふだけは生きた人間を見たいやうな気がする。
 今に面白く燃えてゐる火は消えてしまふ。薪の山を潜つてゐる焔が次第にのろくなつて、とうとう一山の赤い炭が残つて、その上を青い火の舌がちよろちよろするやうになる。その青い舌が段々見えなくなる。さうすると天幕の中は元の沈黙と暗黒とに占領せられてしまふだらう。その時己の胸の中には、又さつきのやうな係恋《あこがれ》が萌して来るだらう。その時分には赤い炭が灰を被つて微かに見えてゐて、それもとうとう見えなくなつてしまふだらう。己は一人になるだらう。一人で長い静かな、物懐しい夜《よ》を過ごさなくてはならないだらう。
 こんな時に人間を恋しがるのは好いが、その人が人殺しでもした事のある奴かも知れない。併し己はそんな事は思はない。一体シベリアに住んでゐると人殺しでも人間だといふ感じがして来る。勿論段々心易くして見たつて、錠前を切つたり、馬を盗んだり、暗夜に人の頭を割つたりする人間が、所謂《いはゆる》不幸なる人間として理想化して見られるやうになるわけでもないが、兎に角人間には色々な、込み入つた衝動や意欲があるものだといふ事が理解せられて来る。人間はどんな時にどんな事をするものだといふ事が理解せられて来る。人殺しだつて、いつでも人を殺すのではない。我々と同じやうに生きてゐて、同じやうな感じを持つてゐる。それだから寒い夜に自分を暖かい天幕の中へ泊まらせてくれる人に対して、感謝するといふ念をも持つてゐる。併し己の目に、今来た人間が立派な鞍を置いた馬を連れてゐて、その鞍に色々な荷物が括り付けてあるのが見えたところで、その人間がその馬の正当な持主であるやら、又その荷物の中にあるものが、その人間の正当な所有品であるやら、そんな事は容易に判断しにくいのである。
 馬の革で張つた、重くろしい戸が外から開けられた。中庭から白い霧が舞ひ込んで来る。その時旅人は煖炉の前へ進んだ。背の高い、肩幅の広い、立派な男である。衣服はヤクツク人と同じであるが、人種の違ふ事は一目に分かる。足には雪のやうに白い馬皮《ばひ》製の長靴を穿いてゐる。ヤクツク人の着る寛《ゆる》い外套が肩で襞を拵へて、耳まで隠してゐる。頭と頸とは大きなシヨオルで巻いてある。そのシヨオルの下の端は腰の周囲《まはり》に結んである。シヨオルもその外の衣類も、山の高い、庇のない帽も氷で真つ白になつてゐる。

     二

 客は煖炉の側に寄つて、凍《こゞ》えた指で不細工にシヨオルの結目を解いて、それから帽の革紐を解いた。シヨオルと帽とを除《の》けたところで顔を見ると、三十歳ばかりの男の若い、元気の好い顔が寒さで赤くなつてゐる。卑しいやうで、しつかりした容貌である。こんな顔の人をこれまで押丁《おうてい》なんぞで見た事がある。総て人に対して威厳を保ち、人を恐れさせてゐるが、その癖自分は不断用心してゐなくてはならないといふ風の男にこんな容貌があり勝ちに思はれる。表情に富んだ、黒い目が、ちよい/\と、物の底まで見抜くやうな見方をする。顔の下の半分が少し前に出てゐる。これは感情の猛烈な人相である。併しこの男はその感情を抑へて縦《ほしいまゝ》にしないやうに修養してゐるらしい。身分が流浪人だといふ事は直ぐ分かる。どこで分かるといふ事は言はれないが、一目で分かる。この男の心が不安で、心の中で争闘が絶えないといふ事だけは、下唇がぶる/\するのと、所々の筋肉が神経性に働くのとで判断する事が出来る。
 顔の表情は大体からいへば、そつけないのであるが、どこかそれを調和してゐるものがある。それは一種の憂愁を帯びてゐるところに存する。多分疲れたのと、夜の寒さと戦つたのと
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