家常茶飯
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
森鴎外訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大窓《おおまど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)コニャック一|瓶《びん》

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     第一場

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広き画室。大窓《おおまど》の下に銅版の為事《しごと》をする卓《たく》あり。その上に為事半ばの銅版と色々の道具とを置きあり。左手に画架。その上に光線を遮るために使う枠を逆さにして載せあり。室《しつ》の真中《まんなか》に今一つの大いなる画架あり。その脇《わき》に台あり。その上に色々の形をなしたる筆立《ふでたて》に絵筆を立てあり。筆立の中《うち》には銅器にて腹のふくらみたるも交《まじ》れり。絵具入《えのぐいれ》になりおる小さき箪笥《たんす》。その上には色々の雑具を載せあり。その内に小さき鏡、コニャック一|瓶《びん》、小さきコップ数個、紙巻莨《かみまきたばこ》を入れたる箱、菓子を入れたる朱色の日本漆器などあり。その傍《そば》に甚だ深く造りたる凭掛《よりかかり》の椅子《いす》あり。凭りかかる処《ところ》は堅牢《けんろう》に造りありて、両肱《りょうひじ》を持たする処を広くなしあり。この椅子に向き合せて、木部を朱色の漆にて塗りたる籐《とう》の椅子あり。奥の壁は全く窓にて占領せられおる。左手の壁に押付けて黒き箪笥を据えあり。その上に髑髏《どくろ》に柔かき帽子を被《かむ》せたるを載せあり。また小さき素焼の人形、鉢、冠《かんむり》を置きあり。その壁には鉛筆画、チョオク画、油絵|等《とう》のスケッチを多く掛けあり。枠に入れたると入れざると交《まじ》れり。前手《まえて》に小さき円形《まるがた》の鉄の煖炉《だんろ》あり。その上に鍋《なべ》類を二つ三つ載せあり。黒き箪笥の傍《そば》に、廊下より入《い》り来《く》るようになりおる入口あり。右手の壁の前には、窓に近き処に寝椅子あり。これに絨緞《じゅうたん》を掛く。その上にはまた金糸《きんし》の繍《ぬい》ある派手なる帛《きれ》を拡《ひろ》げあり。この上の壁は中程を棚にて横に為切《しき》りあり。そこまで緑色の帛を張りあり。その上に数個の額を掛く。小さき写真の上を生花《せいか》にて飾りたるあり。棚の上には小さき、柄《え》の長き和蘭陀《オランダ》パイプを斜《ななめ》に一列に置きあり。その外小さき彫刻品、人形、浮彫の品《しな》等《とう》あり。寝椅子の末《すえ》の処に一枚戸の戸口あり。これより寝間《ねま》に入《い》る。その傍《そば》に、前へ寄せて、人の昇りて立つようにしたる台あり、その半ばを屏風《びょうぶ》にて隠しあり。台の上には緋《ひ》の天鵞絨《びろうど》に金糸の繍ある立派なる帛を投げ掛けあり。ずっと前に甚だ大いなる卓《たく》あり。これは為事机に用いるものにて、紙、文反古《ふみほご》、書籍、その他《た》色々の小さなる道具を載せあり。その脇に書棚ありて、多くは淡《あっさ》りしたる色の仮綴《かりとじ》の本を並べあり。○この画室は町外《まちはずれ》にあり。時刻は午《ひる》少し過ぎたる頃《ころ》なり。窓の外には鼠色《ねずみいろ》の平《たいら》なる屋根、高き春の空、静《しずか》に揺ぐ針葉樹の頂を臨む。○画家ゲオルク・ミルネル。丈余り高からず。二十四歳ばかり。ブロンドなり。髪は柔かく、小さなる八字|髭《ひげ》を生やしいる。黒のフロックコオトに黒のネクタイ。服は着たるばかりなりと覚しく、手にて皺《しわ》を熨《の》すように撫《な》で、埃《ほこり》を払うように叩《たた》きつつ、寝間の戸を開けて登場。斯《か》く服をいじりて窓の処まで行《ゆ》き暫《しばら》く外を見て、急に向き返り、部屋の内を、何か探すように、歩き廻《まわ》る。さて絵具入の箪笥の上の鏡を見出《みいだ》し、それに向きてネクタイを直さんとし、鏡に五味のかかりいるを見て、じれったげに体を動かし、ハンケチを見出し鏡を拭《ふ》き、そのハンケチを椅子の上に投ぐ。さて鏡を手に取り、ネクタイを直す。
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画家。これで好《い》い。(安心したるらしき様子にて二三歩窓の方に行《ゆ》き、懐中時計を見る。)なんだ。まだ三時だ。大分《だいぶ》時間があるな。(絵具入の箪笥の処に立戻る。この箪笥は高机《たかづくえ》の半分位の高さになりおる。その上にある紙巻莨の箱を手に取り、小言のように。)五味だらけだ。何を取って見ても五味だらけだ。(紙巻を一本取る。○戸を叩く音す。何《な》んとも思わぬ様子にて。)お這入《はい》んなさい。(マッチを探す。ようようマッチの箱を見出し、マッチを一本取りて摩《す》る。また戸を叩く音す。うるさがる様子にて。)お這入んなさい。(その内マッチの火消ゆ。燃えさしを床《ゆか》の上に投げ、また一本摩り、莨を吸付けながら、どうでもいいというようなる風にて戸の方を見る。○モデル娘《むすめ》。質素なる黒の上着に麦藁帽子《むぎわらぼうし》の拵《こしらえ》にて、遠慮らしく徐《しずか》に入《い》り来《きた》る。画家はマッチを振りて消す。)モデルか。入《い》らない、入《い》らない。また来ておくれ。(モデルの方に背中を向け、紙巻を喫《の》む。)
モデル。先生。わたしですよ。
画家。(急に向返《むきかえ》る。)何んだマッシャかい。見違えてしまった。黒なんぞ着てるんだから。どうしたんだい。
モデル。ただ、どんな御様子かと思って。
画家。そうか。大分長く顔を見せなかったなあ。近頃《ちかごろ》どうだい。
モデル。ええ。どうやらこうやらというような工合《ぐあい》ですよ。この頃はわたし共に御用はおありなさらないの。
画家。うむ。この頃はお休《やすみ》だ。どうだ。少し掛けないか。
モデル。でもお出掛でしょう。
画家。なぜ。
モデル。(画家の衣服を指さす。)そんなお支度でいらっしゃるじゃありませんか。
画家。これかい。そりゃあ出掛けるには出掛けるのだが、まだ早い。まあ腰でも掛けないか。近頃は忙《いそが》しいかい。
モデル。(進みて藁椅子に腰を掛く。画家は今一つの低き椅子の背に腰を半分掛く。)いいえ。どなたも何んにもなさらないようですわ。
画家。(微笑《ほほえ》む。)それ見ろ。己《おれ》だって同じ事だ。
モデル。(やはり微笑む。)それで毎日毎日何をしていらっしゃるの。
画家。フロックコオトに御奉公をしているのだ。こういっては分るまい。人の処へ訪問に出掛けたり、人に案内をして貰《もら》ったりしているのだ。
モデル。急にそんな事が面白くお成りになったの。
画家。いや、面白くも何んともありゃしない。
モデル。それなのにどうしてそんな事をしていらっしゃるの。
画家。ふん。自分のために面白い事が出来なければ為方《しかた》がないじゃないか。
モデル。おかきなされば好いでしょう。
画家。それがかけないのだ。
モデル。かけないのですって。
画家。うむ。
モデル。嘘《うそ》だわ。冬なんぞは。
画家。そりゃあ冬は違うさ。十一月頃の薄暗い天気の日に、十一時頃になっても光線が足りない時なんぞは、どんなにか気を揉《も》んだものだ。悪くすると一日明るくならずにしまうのだからな。あの頃もっと勉強して置けば好《よ》かった。あの頃かけば幾らでもかけたような気がしてならない。この頃は、朝早くから窓一ぱいの光線が差込む。それを使わずに見ているのが癪《しゃく》に障るので、己は昼まで寝部屋の中に寝ているのだ。
モデル。それには夜遅くお帰りなさるせいもあるでしょう。(間《ま》。)
画家。(真面目《まじめ》に。)なるほど。そりゃあ遅く帰るせいもあるだろう。うむ。人間は気保養《きほよう》もしなくてはならないからな。
モデル。ええ。保養をなすって、それから為事におかかりなさるが好いわ。
画家。なんだ。妙に己に意見をするような事をいうなあ。
モデル。(間《ま》の悪気《わるげ》に。)そんな訳ではございませんが、ふいとそう思ったもんですから。それに詞《ことば》のはずみですわ。
画家。詞のはずみばっかりかい。何んだかお前は厭《いや》に賢夫人らしくなったじゃないか。
モデル。(笑う。)全く詞のはずみで。(間の悪気に言い淀《よど》む。)
画家。どうだい。お前は何か稽古《けいこ》なんぞをした事があるのじゃないか。
モデル。一向出来ませんわ。すこおし読め出すと内が台なしになってしまったもんですから。
画家。急に貧乏になったのかい。
モデル。ええ。出し抜けでしたの。お父《とっ》さんが相場をして。
画家。そうかい。それじゃあ読めば読めるのだな。
モデル。ええ。読めますわ。小さい時にはお父さんの本棚の前に行って、見ていまして、これが読めたらと思っていたのです。それから読めるようになったら。
画家。ふん。読めるようになったらどうしたのだ。
モデル。その時はもう本なんか無くなっていましたの。
画家。そうかい。みんな差押えられてしまったのだな。
モデル。ええ。
画家。その後《のち》どうしているのだ。
モデル。こうしていますわ。(打萎《うちしお》れたる様子。)
画家。そこいらにある本で好いなら。いつでも持って行くが好いぜ。(本棚を指ざす。)
モデル。難有《ありがと》うございます。いつか中《じゅう》も願って見ようかと思っていましたの。(間。)
画家。格別|冊数《さつかず》はないが、あの中にでも何かしらあるだろう。(間。)何んだってそんなに己の顔を見るんだい。
モデル。あなたは丁度いつか中のような御様子でいらっしゃるわ。
画家。いつか中とはいつだい。
モデル。あの盛《さかん》にかいていらっしゃった十一月頃と同じような御様子に見えますの。
画家。あのかけた頃のように見えるというのか。ふん。一体どんな顔だい。
モデル。そうですねえ。何んといったら好いでしょう。こう敬虔《けいけん》なような。
画家。なんだと。
モデル。いいえ。そうではないわ。そういっては当りませんの。
画家。そんならどうだというのだ。
モデル。そうね。作業熱のあるお顔ですわ。
画家。(紙巻を灰皿に押付けて消す。)ふん。作業熱のある顔というのは、どんな顔だい。
モデル。(徐《しずか》に)信仰のあるような顔ですわ。
画家。(真面目なる顔にてモデルをじっと見る。モデル立ち上る。)今日の己の顔はそんな風かなあ。
モデル。ええ。(間。)
画家。(間。○微笑む。)そうして見ると近い内にまたお前に来て貰わなくっちゃあならないようになるだろうかな。
モデル。(喜ばし気に。)いつでも参りますわ。
画家。(たゆたいつつ。)ふむ。事によったら。(神経質なる態度にて、あちこち歩き始む。)事によったらやられるかも知れない。考《かんがえ》はとうから幾らもあるのだ。ただ片っ方の奴《やつ》をつかまえようとすれば外の奴が邪魔になる。でもどうかすると妙なことがある。先《せん》の週だっけ。雨の降った日がもう少しで暗くなろうという時だった。こう見るものが昔話のように、黄金色《こがねいろ》に見えたっけ。地《じ》が温かに、重いようで。背景が。そしてその前にあるものが、光って、輪廓《りんかく》がはっきりして、恐ろしく単純に見えたっけ。妙に情を動かすように単純に見えたっけ。そうだ。前の週の木曜日だったと思う。あんな時に直《す》ぐかき始めれば好いのだが。ついそんな時にいろんな事を考えるもんだから。
モデル。外《ほか》の事が邪魔に這入るのでしょう。不断の下らない事が。
画家。(立ち留りてモデルを見る。)お前のいう通りだ。その内呼びにやるぜ。
モデル。あしたはどうでしょう。
画家。あしたかい。あんまり性急だなあ。あしたはむずかしい。第一今夜は帰が遅くなるのだ。それにこの部屋も一度大掃除をしなくちゃあ。まあ、この埃を見てくれい。(モデル娘忙がわし気に帽《ぼう》を脱ぎ、上着を脱ぎかかる。)どうするのだ。
モデル。お掃除をしますわ。拭巾《ふきん》が
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