で燕尾服《えんびふく》にも及ばないといって来た位です。姉さんは近頃どうしているのですか。みんな健康ですか。おっ母《か》さんは。
姉。(微笑む。)実はおっ母さんが様子を見て来いといったから来ましたよ。三日ばかりお前さんが顔を見せないもんだから、心配をなすってね。それにゆうべ夢に見たから、何事かありゃしないかというのですよ。年が寄って病気だもんだから、迷信家になってしまって困りますの。(間。)上元気のようね。
画家。そうですよ。慢性怠惰病という病気は別として。
姉。(微笑む。)まあ、その病気なら命に別条はないでしょう。
画家。(真面目に。)そうさ。しかしある意味においては人を死なすかも知れません。(間。)おっ母さんには、今からマルリンクの処へ呼ばれて行く処だったとそう言って下さい。マルリンクの処ではない。欧羅巴《ヨオロッパ》ホテルです。宴会はホテルであるのです。一体おっ母さんは何をしていますか。
姉。やっぱりいつもの通りですよ。ちょいと。マッシャさんが何か用があるのでしょう。(モデル娘の方《かた》を顔にて示す。娘は上着を着、帽を被《かむ》り、何か用あり気に戸の近くに立ち留りいる。)
モデル。いえ。ただお暇乞《いとまごい》を致そうと存じまして。
画家。(少し腰を上げ、半ば向き返る。)好い好い。また来て貰おう。
姉。さようなら。
モデル。さようなら。御ゆっくりと。(退場。)
姉。あれが名高いマッシャなのね。
画家。(何か物を案じいて、気のなき返事をなす。)ええ。あれがマッシャです。
姉。去年の十一月に、あの大きい画をかいている頃、わたしに、色々話してお聞かせだったのね。
画家。(突然立ち上る。)姉さん。ちょっと御免なさいよ。
姉。ええ。
画家。(忙がわし気に戸口に行《ゆ》き、戸を開け、外に向きて呼ぶ。)おい。マッシャ。(間。梯子《はしご》を下《お》り行《ゆ》く足音留る。)マッシャ。
モデル。(梯子の下より。)ええ。只今《ただいま》。(急ぎ足にて梯子を登る音す。さて、戸の外まで帰り来たる様子なり。)
画家。さっきの事はなあ、己は何んとも思ってはいないよ。いいかい。
モデル。(梯子を駈け登りしため、息を切らしいる様子。)本当にあんまり出し抜けだもんですから、吃驚《びっくり》しましたのと、それにわたしは恥《はず》かしくって。
画家。なに。恥かしかったのだと。何んだ。馬鹿《ばか》ら
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