いだというじゃあないか。(板を壁にがたりと寄せ掛く。さてチョッキのみになりたるに心付き、床《ゆか》の上にある上着を取上げ着る。娘、傍《そば》に寄る。)なんだ。
モデル。(間の悪気に。)お服が五味だらけになりましたわ。
画家。そんなら、掃いてくれい。(娘、ブラシを探す。画家|卓《たく》を指ざす。)あそこにある。(娘、ブラシを持ち来て服を掃く。間。○戸を叩く音す。画家|高声《たかごえ》に。)お這入んなさい。
画家の姉。(戸を少し開けて透間より。)好いの。
画家。姉《ねえ》さんですか。
姉。ええ。わたしよ。
画家。お這入んなさい、お這入んなさい。(モデル娘は服を掃く手を止《とど》め、気を置くように戸の方《かた》を見る。○ゾフィイは老けたる処女なり。質素なる拵えにて登場。髪は真中《まんなか》より右左に分けいる。容貌《ようぼう》美ならず。されど柔和にて目付|賢気《かしこげ》に情《なさけ》あり。万事察しの好き風なり。後《うしろ》の戸を締め、モデルを見てたゆたう。)好いからずっとこっちへおいでなさいよ。これがマッシャなのです。そら。好く姉さんに話したでしょう。今服の五味を取って貰っていた処です。今日はマルリンクの処へ午餐《ごさん》に呼ばれましたので。
姉。(進み入る。)ちょいちょい覗《のぞ》いて見ようと思うのだけれど、つい御無沙汰《ごぶさた》になってね。(モデル娘に。)今日《こんち》は。(握手せんとす。娘は意外に思うらしく慌ててそっと手を出《いだ》し、一秒間程相手の手を握る。貴夫人の己《おの》れと握手する事はあり得《う》べからざるように思いおるゆえ驚きしなり。さて、艶拭巾を取りて、絵具箪笥の抽斗の、まだ開けある中にしまい、忙がわしく上着を着る。)どこへ呼ばれているのですって。
画家。(手真似にて姉に、寝椅子を指さし示し、自分も藁の椅子を傍《そば》に持ち行《ゆ》き、腰を掛く。)マルリンクの処なのです。
姉。(寝椅子に腰を掛く。)あそこの内では今日よめさんが来るのだというではありませんか。
画家。(半ば見物《けんぶつ》に背を向けて藁椅子に腰を掛く。)それなのです。儀式には厭だから行かないが、午餐だけは断るわけにも行かないものですからね。息子は近頃随分親しくしているのですから、断ると感情を害しますからね。それに午餐といっても極近い親類や友達《ともだち》の外は呼んでないのだそうです。それ
前へ
次へ
全41ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング