であつた。
 女は此詞を聞いて微笑《ほゝゑ》んだ。「これは思つたよりは話せる人らしい」と心の中《うち》に思つたのである。「ようございますよ。ようございますよ。」かう云ひながら、女はセルギウスの側を摩《す》り抜けるやうにして中に這入つた。「あなたには誠に済みません。こんな事を思ひ切つていたす筈ではないのですが、実は意外な目に逢ひましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云つた。暫く嗅いだ事のない上等の香水の匂が鼻をくすぐつた。
 女は前房を通り抜けて、庵室に這入つた。
 セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女の跡から帰つて来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便《ふびん》なる罪人《つみびと》に赦し給へ。主よ不便なる罪人に赦し給へ。」こんな唱事《となへごと》を続け様《さま》にしてゐる。心の中《うち》でしてゐるばかりでなく、唇まで動いてゐる。それから「どうぞ」と女に言つた。
 女は室の真ん中に立つてゐる。着物から水が点滴《あまだれ》のやうに垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中《うち》に笑を見せてゐる。「御免なさいよ。あなたのかうして行ひ澄ましてお出なさる所へお邪
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