も出ずにゐたので、女中のルケリアがスウプと粥とを部屋に運んで食べさせたのである。
セルギウスはパシエンカの帰つたのを見て云つた。「お約束より早くお帰りでしたね。今お話が出来ませうか。」
「まあ。なんと云ふ難有い事でございませう。あなたのやうなお客様がお出なすつて下さるなんて。わたくしはいつもの稽古を一時間だけ断りました。跡から填合《うめあはせ》をいたせば宜しいのです。わたくしは疾《と》うからあなたの所へ参詣しようと思つてゐました。それからお手紙も上げました。それにあなたの方でお出下さるとは、まあ、なんと云ふ難有い事で。」
「どうぞそんな事を言つて下さるな。それからわたしが今あなたに話す事は懺悔ですよ。死ぬる人が神様の前でするやうな懺悔ですよ。どうぞその積りで聞いて下さい。わたしは聖者ではありません。罪人です。厭な、穢らはしい、迷つた、高慢な罪人です。人間の中で一番悪いものよりもつと悪い人間です。」
パシエンカは目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、セルギウスの詞を聞いてゐる。セルギウスが真実の話をすると云ふ事が、婆あさんには分つてゐるのである。婆あさんはセルギウスの手を取つて、優しく微笑んで云つた。「でもそれはあんまり大業《おほげふ》にお考へなさるのぢやありますまいか。」
「いや。さうでない。わたしはね、色好みで、人殺しで、神を涜した男だ。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝きだ。」
「まあ。どうしたと云ふのでせう。」
「それでもわたしは生きてゐなくてはならない。今までわたしは何事をも知り抜いてゐるやうに思つて、人にどうして世の中を渡るが好いと教へて遣つたりなんかした。その癖わたしはなんにも分つてゐないのだ。そこで今あなたに教へて貰はうと思ふのです。」
「まあ。何を仰《おつし》やるの。それではわたくしに御笑談《ごぜうだん》を仰やるやうにしか思はれませんね。昔わたくしの小さい時も、好くわたくしを馬鹿にしてお遊びなすつた事がありましたが。」
「なんのわたしがあなたに笑談を云ふものですか。わたしは決してそんな事はしない。どうぞあなたは今どうして日を暮してお出だか、それをわたくしに教へて下さい。」
「あの。わたくしでございますか。それは/\お恥かしい世渡をいたしてをりますの。これは皆神様のお罰《ばち》だと存じます。自分でいた
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