と銭とを巡礼に遣つた。それは巡礼の姿を見ると、如何《いか》にも立派な、品の好い人柄であつたので、初め思つた倍の物を遣りながら、それを息張《いば》つて遣るどころではなく、実際まだこれでは余り少ないと、恥かしく思つたのである。
 セルギウスは三百ヱルストの道を乞食をして来た。痩せた体に襤褸《ぼろ》を纏つて埃だらけになつてゐる。髪は短く切つてある。足には百姓の靴を穿いて、頭には百姓の帽子を着てゐる。それが叮嚀に礼をした。それでも今まで国内の四方から幾人となく来た人を心服させただけの、威厳のある風采は依然としてゐるのである。
 併しパシエンカは此巡礼が昔のステパンだと云ふことを認める事が出来なかつた。大分年を隔てゝゐるのだから無理はない。「若しお腹《なか》がすいてお出なさるなら、何か少し上げませうか。」
 セルギウスは黙つてパンと銭とを受け取つて、パシエンカの詞には答へずにゐる。併しその儘立ち去らうとはしないで、パシエンカの顔をぢつと見てゐる。
 パシエンカは不思議に思つた。
「パシエンカさん。わたしはあなたの所へ尋ねて来たのです。少しお願があつて。」セルギウスはかう云つた。美しい目の黒い瞳は動かずに、物を歎願するやうにパシエンカの顔に注がれてゐる。そのうちその目の中に涙が湧いて来る。そして白くなつた八字髭の下で唇がせつなげに震えて来る。
 パシエンカは痩せた胸を手で押へた。そして口を開いて、目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、呆れて乞食の顔を見詰めた。「まあ。あんまり※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のやうですが、あなたでしたか。ステパンさんでせうか。いえ。セルギウス様でせうか。」
「さうですよ。ですがあなたの言つてゐられるその名高いセルギウスではありません。わたしは大いなる罪人《つみびと》ステパン・カツサツキイです。神様に棄てられた、大いなる罪人です。どうぞわたくしを助けて下さい。」
「まあ。どうしてそんな事がわたくしなんぞに出来ませう。なぜあなたそんなにおへり下りなさいますの。まあ、兎に角こちらへ入らつしやいまし。」
 セルギウスはパシエンカの差し伸べた手には障《さは》らずに、跡に付いて上つて来た。
 パシエンカはセルギウスを上らせはしたが、どこへ連れ込まうかと思ひ惑つた。家は小さい。最初此家に来た頃は、ほんの物置のやうな
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