のだ。退くのだ。それが厭なら少し寄附でもするが好い。おい、そこにゐるをばさん。お前も退くのだ。どこへ押して来ようと云ふのだ。さつきも聞いた通り、もうけふはおしまひなのだ。又あした来たら、お前も伺ふ事が出来るかも知れない。運次第だ。もうけふは駄目だよ。」
「いゝえ。わたくしは只セルギウス様を、一目拝めば宜しいのです。」かう云つたのは婆あさんである。
「お顔ならすぐに見せて遣る。何を押すのだ。」
商人が随分群集につらく当るのが、セルギウスに聞えた。セルギウスは庵室の小使を呼んで、あの人に余りひどく人を叱らないやうに言へと命じた。かう云つたつて、商人は矢張追ひ退けるとは、セルギウスにも分つてゐる。自分ももう一人でゐたい、休みたいと思つてゐる。それでも小使を遣つて商人に注意を与へた。これは群集に感動を起させようとしたのである。
商人は答へた。「好いよ、好いよ。何もわたしは皆を追ひ退けるのではない。只少し抑へるだけだ。打ち遣つて置くと、あの人達は人一人責め殺す位平気なのだ。皆自分の事ばかり考へてゐて、人を気の毒だなんぞとは思はない。行けないよ。退くのだと云つてゐるぢやないか。あす来るのだよ。」とう/\群集が悉く散つてしまふまで、商人は止めなかつた。
商人がこんなに骨を折るには種々の理由がある。一つは自分が平生秩序を好んでゐるからである。今一つは大勢の人を追ひまくるのが面白いのである。併し今一つ何よりも大事な理由がある。それは自分が一人残つてセルギウスに頼まうと思ふことがあるのである。
商人は妻を亡くした独りものである。妻の死んだ跡に病気な娘が一人残つてゐる。その娘は病気があるために、人に※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》に遣ることが出来ぬのである。商人は此娘を連れて千四百ヱルストの道をわざ/\来た。これは娘の病気をセルギウスに直して貰はうと思ふからである。
商人の娘はもう病気になつてから二年立つてゐる。その間父は娘を諸方に連れて廻つて、病気を直して貰はうとした。最初には地方の大学の外来診察を受けさせた。併しなんの功もなかつた。それからサマラ領の百姓で、療治の上手なものがあると聞いて、連れて往つた。それは少し利目があつたらしかつた。それからモスクワの医者の所へ連れて往つて、金を沢山取られた。これはなんにもならなかつた。丁度その時セルギウスがなんの病気でも
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