クサンチス
XANTHIS
アルベエル・サマン Albert Samain
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)硝子《ガラス》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|言《ごん》も聞えなかつた

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「身+果」、第4水準2−89−55]《はだか》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)処々《しよ/\》
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 飾棚だの飾箱だのといふものがある。貴重な材木や硝子《ガラス》を使つて細工がしてある。その小さい中へ色々な物が逃げ込んで、そこを隠れ家《が》にしてゐる。その中から枯れ萎びた物の香《か》が立ち昇る。過ぎ去つた時代の、人を動かす埃がその上に浮かんでゐる。昔の人のした奢侈の、上品な、うら哀《かな》しい心がそこから啓示《けいし》せられるのである。
 己《おれ》はさういふ棚や箱を見る度に、こんな事を思ふ。なんでも幅広な、奥深い帷《とばり》に囲まれて、平凡な実世界の接触を免かれて、さういふところでは一種特別な生活が行はれてゐるのではあるまいかと思ふ。真成なる有《いう》といふものがあるとすれば、それに必要な条件が、かういふところで、現実的に、完全に備はつてゐるのではあるまいか。もし物に感じ易い霊のある人がゐて、有用無用の問題をとうとう断絶してしまつて、無条件に自然の豊富に己を委ねてしまつたら、かういふ棚や箱が、限なく尊いエリシオンの原野になるのではあるまいか。
 己はかういふものを楽んで見るのが縁になつて、色々自分の為めになる交際を結ぶことが出来た。中にも己は或る古い、銀の煙草入れと近附きになつた。その煙草入れには、アレクサンドロス大帝が印度王ポロスを征服した戦争の図が、極めて細密に彫り附てあつたのである。この煙草入れが、先頃日の暮れ方の薄明りに、心持の幽玄になつた時、親切にも或る話をして聞かせてくれた。その話は人に物の哀を感ぜさせ、興味を催させ、道義の念を感発せしむる節《ふし》の頗る多い話であつた。己はその話をこゝに書かずにはゐられない。これはその話を聞いて、実際さうであつたかと信ずる事の出来る程、夢見心になることの好な人に読ませる為めに書くのである。
 ルイ第十五世時代に出来た飾箱の中に、何一つ欠点の挙げやうのない、美しい、小さいタナグラ人形があつた。明色《めいしよく》の髪の毛には、菫の輪飾が戴かせてある。耳朶《みゝたぶ》にはアウリカルクムの輪が嵌めてある。きらめく宝石の鎖が胸の上に垂れてゐる。体が頭の頂から足の尖まで羅《うす》ものに包まれてゐて、それが千変万化の襞を形づくつてゐる。その羅ものの底から、体のうら若い、敏捷な態度が、隠顕出没して、秘密げに解け流れる裸形《らけい》になつて見えるやうである。
 この人形の台に彫つてある希臘《グレシア》文字を見れば、この女の名はクサンチスといふものである。生れた土地はクリツサといつて、近くに豊饒《ほうねう》な平野が多く、その外を波の打ち寄せる海に取り巻かれてゐる都会であつた。
 クサンチスは実にこの飾箱の中の第一の宝である。
 折々クサンチスは台から下へ降りて来て、大勢が感嘆して環《めぐ》り視てゐる真中に立つて、昔アルテミスの祠《ほこら》の、円柱《まるばしら》の並んだ廊下で踊つた事のある踊を浚《さら》つて見る。金の輪を嵌めた、小さい足を巧みに踏んで、真似の出来ない姿をして、踊の段取りを見せる。その間に、自分では知らずに、変幻極まりなく、且最も深遠な事物を表現する。そして踊つてしまつて、真つ直ぐに、誇りの姿をして立つて、両臂をはればれしく頭の上に挙げて、指を組み合はせてゐて、優しい乳房の上に、羅ものが静かに緊張してゐると、名状すべからざる、崇高な美が輝いて、それを見る人は神聖なる震慄《しんりつ》に襲はれるのである。
 或る日クサンチスがいつもより一層人を酔はせるやうな踊り方をした跡で、そこへ近所の貴人《きにん》が見舞ひに来た。この人は昔マイセンで出来た陶器人形の公爵である。身なりが上品で、交際振りの丁寧な事は比類がない。顔色にどこか疲れたやうな跡はあるが、まだ美男子たる事を失はない。只戦争に行つたので、首と左の足とは焼接ぎで直してある。
 クサンチスには公爵がひどく気に入つた。かすめた声に現はれてゐる疲れが、何事にも打ち勝つて行く青年の光沢よりも、却つて女の心を迷はせるのである。
 公爵は長い間女と話をしてゐた。その口から語り出す事は、何もかも女の為めにひどく面白く聞えた。不思議な事には、クサンチスはその話を聞いてゐながら、自分の記憶してゐた故郷の事を思ひ出した。それは夕日が紅《くれなゐ》を帯びた黄金《こがね》色に海岸を照してゐる時、優しい、明るい目をした、賢い人達が、互に親しい話を交へてゐる様子を思ひ出したのである。
 別れを告げて帰る時、貴人は女の手をそつと握つて、それにそつと接吻した。クサンチスはこれより前に、久しい間、或る老人の猶太《ユダヤ》人に世話をせられて、世をあぢきなく感じてゐたのである。猶太人はこの女を亜鉛《とたん》に金めつきをした厭な人形の中に交ぜて置いたのである。それが今こんな上品な交際振りをする人と知合ひになつたのだから、喜ぶのも尤《もつとも》である。
 二人の交際は次第に親密になつた。公爵は、その時代の人の習はしとして、人に気に入るやうに立ち振舞ふ事が上手だから、クサンチスを喜ばせる事が出来たのである。
 折々公爵は、クサンチスが朝早く起きた頃に、薔薇の花で飾つた陶器の馬車で、迎へに来た。女は急いで化粧をして、丁度その日の空の色と、自分の気分とに適した着物を着て出掛けた。或る時はふはふはした紐飾の付いた、明るい色の、幅広な裳を着ける。春の朝のやうに軽々として華やかである。或る時は薄い柳の葉の色や、又はレセダの花の色をした、アトラスの絹で拵へた、長いワツトオ式の衣裳を着る。背中には大きい、長い襞が取つてある。又或る時はレカミエエ式の、金の棕櫚の葉の刺繍をした服を着る。臂の附け根の直ぐ下の処に、薔薇色か、サフラン色か、又は黄金色掛かつた褐色の帯が締めてある。
 そして終日扇の絵の美しい山水の間を、馬車で乗り廻る。薄緑の芝生や、しなやかに昇る噴水で飾られた園《その》がある。処々《しよ/\》に高尚な大理石の像が立てゝある。木立の間には、愛の神を祀《まつ》つた祠《ほこら》がある。さういふ時は草の上や、又は数奇《すき》を凝した休憩所で辨当を食べて帰る。帰り道に馬車をゆるゆる輓《ひ》かせて通ると、道の両側から、鳩の群に取り巻かれた、牧場《まきば》帰りの男や女が礼をするのである。
 実に面白い散歩であつた。
     ――――――――――――
 暫く立つてから、公爵がクサンチスを一人の大理石で刻んだ青年の頭《あたま》に紹介した。この青年は、公爵が近頃知合ひになつた人で、大層音楽が上手だといふ事であつた。
 一目見たばかりで、青年はクサンチスを気に入つた女だと思つた。その青年の感じが又クサンチスにも分かつた。二人はよそよそしい話を交へながら、音楽家の方からは不思議な、少し気違ひ染みた目附きをして女を見てゐた。女はわざと伏目になつたが、燃えるやうな目で見詰めてゐられる内に、押さへ付けるやうな熱のある、名状すべからざる感じが、女の胸の底から湧き上がつて来た。
 公爵に勧められて、音楽家は演奏し始めた。それを聞いてゐるクサンチスの心持は、不思議な、目に見えない手が自分の髪を掴んで、種々の印象がからくりのやうに旋《めぐ》つて現はれる世界を、引き摩り廻すかと思ふやうであつた。
 折々公爵は、音楽の或る一節を、程好く褒めて、クサンチスの方へ顔を俯向けて、その一節に就いて自分の思つてゐる事を説明した。併し黙つて、魅せられたやうになつて音楽を聴いてゐる女の耳には、公爵の云ふ事は一|言《ごん》も聞えなかつた。その癖音楽家の目は、女に或る新しい理解を教へてゐる。女はこの目を見て、始めて沈鬱の酔《ゑひ》といふものを覚えたのである。
 音楽家の家を出るや否やクサンチスは公爵に暇乞をした。我慢の出来ない程の偏頭痛がすると云つてひどく無作法に暇乞をしたのである。そして自分の台の上に帰つて行つた。
 今迄知らない感覚がクサンチスを悩ましてゐる。
 独り離れてゐて、女は胸の奥深い処から、音楽家の肖像を取り出して、目の前の闇をバツクグラウンドにして、空中に画いてゐる。蒼白い、広い額の下に、深く窪んだ目があつて、その目から時々焔が迸り出る。口は大きく、熱情と沈鬱とをあらはしてゐる。開いた領飾《えりかざり》の間から、半分露はれてゐる頸は、劇しい感情の為めに波立ち、欷歔《すゝりなき》の為めに張つてゐる。先づこんな美しい顔である。
 クサンチスは翌日公爵に逢つた時、大層好い青年に引き合せて貰つて難有いと云つて、感謝した。それから後は、この女は自分の生涯が今迄よりひどく面白くなつたやうに思つてゐるのである。
 昼の間は公爵を相手にして、所々《しよ/\》を訪問したり、散歩をしたりしてゐる。そして夕方になると、急いで大理石の頭の処へ行く。マドリガルやエピグラムのきらめきに、昼の間《ま》を遊び暮して、草臥《くたび》れた跡で、それとは様子の変つた、彼の青年との交際を楽む事にしてゐる。青年と一しよにゐる心持は、加減の好い湯に這入つて温まるやうである。
 青年の家に駈け付けて行くと、駈けた為めに、まだ興奮して、戦慄してゐる体を、青年は優しく抱き寄せて、額に手を掛けて仰向かせて、目と目をぢつと見合せる。それから黙つて長い接吻をする。その接吻を受ける時、女は日によつて自分の霊が火のやうに燃え立つと思つたり、又雪のやうに解けると思つたりする。
 或る時はクサンチスがこんな事を言ふ。「なんだかかうしてお前さんのお言ひの事を聴いてゐると、わたしは昔から、お前さんとばかり暮してゐたやうな心持がしますわ。どうもこの生活と違つた、別な生活はわたしに想像が出来なくなつてしまひましたの。」二人は二度目に逢つてからは、お前さんだのお前だのと言ひ合つてゐるのである。
「お前は永遠なるもの、完全なるものの閾《しきゐ》を跨いでゐるのだよ。」
「えゝ。全くさうなの。」こんな問答をする。
 実は女はさういふ詞《ことば》が分かるのではない。併し「完全なるもの」なんといふ事は深秘であるから、青年に分かつてゐるだけは、女にも分かつてゐると云つても好からう。女は折々「永遠なるもの」「完全なるもの」といふやうな事を繰返す。そして其詞を声に出して言ふと同時に、曾てそれを聴いた時に感じた不思議な感じ、今言ひあらはさうとする不思議な感じが胸に満ちるのである。どうかすると外の人の前で、此詞を言ひ出す事がある。例之《たとへ》ば公爵に向いてそんな事を言ふ。公爵は軽い嘲《あざけり》の表情を以て、唇に皺を寄せる。そして心の底に不快の萌《きざ》すのを、強ひて自分でも認めないやうにしてゐる。
 或る晩には青年の頭が女に身の上話をして聞かせる。奮闘や失望の多い生涯である。幾度《いくたび》か挫折して飽までも屈せず、力を量《はか》らずに、美に向つて進む生涯である。その話の内に、余り悲しい出来事が出て来ると、青年は欷歔《すゝりなき》をして跡を話す事が出来なくなる。そんな時には、青年は小さい踊子をぴつたり引き寄せて、自分の頭を女の開いた胸に当てて、子供らしい声で、不思議な詞を囁く。「お前は可憐な、光明《くわうめい》ある姉妹の霊だね。神々しい容器だね。無窮の歓楽だね。小さいスフインクスだね。」こんな詞である。
 こんな詞を聴いても、女には少しも分からない。併しそれを囁く声の優しい響を、女は楽しんで聞いてゐる。兎に角この詞は、公爵なんぞの詞より、意味が深いに違ひないと思つてゐるのである。
 時間は黄金《こがね》の沓《くつ》を穿いて逃げる。
 窓掛の間へ月が滑り出て、銀色
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