うづしほ
A DESCENT INTO THE MAELSTROM
エドガア・アルラン・ポオ Edgar Allan Poe
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巓《いたゞき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一万五千|呎《フイイト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 二人で丁度一番高い岩山の巓《いたゞき》まで登つた。老人は数分間は余り草臥《くたび》れて物を云ふことが出来なかつた。
 とう/\かう云ひ出した。
「まだ余り古い事ではございません。わたくしは不断倅共の中の一番若い奴を連れて、この道を通つて、平気でこの岩端《いははた》まで出たものです。だからあなたの御案内をしてまゐつたつて、こんなに草臥れる筈ではないのです。それが大約《おほよそ》三年前に妙な目に逢つたのでございますよ。多分どんな人間でもわたくしより前にあんな目に逢つたものはございますまい。よしやそんな人があつたとしても、それが生き残つてゐはしませんから、人に話して聞かすことはございますまい。そのときわたくしは六時間の間、今死ぬか今死ぬかと思つて気を痛めましたので、体も元気も台なしになつてしまひました。あなたはわたくしを大変年を取つてゐる男だとお思ひなさいますでございませうね。所が、実際さうではございませんよ。わたくしの髪の毛は黒い光沢《つや》のある毛であつたのが、たつた一日に白髪になつてしまつたのでございます。その時手足も弱くなり神経も駄目になつてしまひました。今では少し骨を折れば、手足が顫えたり、ふいと物の影なんぞを見て肝を潰したりする程、わたくしの神経は駄目になつてゐるのでございます。この小さい岩端から下の方を見下ろしますと、わたくしは眩暈《めまひ》がしさうになるのでございます。はたから御覧になつては、それほど神経を悪くしてゐるやうには見えますまいが。」
 その小さい岩端といつた所に、その男は別に心配らしい様子もなく、ずつと端の所へ寄つて横になつて休んでゐる。体の重い方の半分が重点を岩端を外れて外に落してゐる。つる/\滑りさうな岩の縁《へり》に両肘を突いてゐるので、その男の体は落ちないでゐるのである。
 その小さい岩端といふのは、嶮しい、鉛直に立つてゐる岩である。その岩は黒く光る柘榴石《ざくろせき》である。それが底の方に幾つともなく簇《むら》がつてゐる岩の群を抜いて、大約一万五千|呎《フイイト》乃至一万六千呎位真直に立つてゐるのである。僕なんぞは誰がなんと云つても、その縁から一二尺位な所まで体を覗けることは出来ないのである。連の男の危ない所にゐるのが気になつて、自分までが危なく思はれるので、僕は土の上に腹這ひになつて、そこに生えてゐる灌木を掴んでゐた。下を見下すどころではない。上を向いて空を見るのも厭である。どうも暴風《あらし》が吹いて来てこの山の根の方を崩してしまひはすまいかと思はれてならない。僕はさういふ想像を抑制することを力《つと》めてゐるのに、又してもその想像が起つてならない。自分で自分の理性に訴へて、自分で自分の勇気を鼓舞して、そこに坐つて遠方を見ることが出来るやうになるまでには余程時間が掛かつた。
 僕を連れて来た男がかう云つた。
「なんでも危ないといふやうな心持を無くしておしまひなさらなくてはいけません。わたくしの只今申したやうに、不思議な目に逢つた場所を、あなたが成るたけ好く一目にお見渡しなさることが出来るやうにと思ひまして、わたくしはこゝへあなたを御案内して参つたのでございます。あなたの現場を一目に見渡していらつしやる前で、わたくしはあなたに委《くは》しいお話を致さうと思つて、こゝへ御案内いたしたのでございます。」
 この男は廻り遠い物の言ひやうをする男である。暫くしてこんな風に話し続けた。
「あなたとわたくしとは只今|諾威《ノルエイ》の国境《くにざかひ》にゐるのでございます。北緯六十八度でございます。県の名はノルドランドと申します。郡はロフオツデンと申しまして陰気な土地でございます。あなたとわたくしとの登つてゐる巓《いたゞき》はヘルセツゲンといふ山の巓でございます。雲隠山《くもがくれやま》といふ仇名が付いてゐます。ちよつと伸び上がつて御覧なさいまし。若し眩暈《めまひ》がなさいますやうなら、そこの草にしつかりつかまつて伸び上がつて御覧なさいまし。それで宜しうございます。この直《ぢ》き下の所には、帯のやうな靄が掛かつてゐますが、その靄の向うを御覧になると海が広く見えてゐるのでございます。」
 僕は恐々《おそる/\》頭を上げて見た。広々とした大洋が向うの下の方に見える。その水はインクのやうに黒い色をしてゐる。僕は直ぐにヌビアの地学者の書いたものにあるマレ・テネブラルムを思ひ出した。「闇の海」を思ひ出した。人間が想像をどんなに逞くしてもこれより恐ろしい、これより慰藉のないパノラマを想像することは、出来ない。右を見ても左を見ても、目の力の届く限り恐ろしい陰気な、上から下へ被《かぶ》さるやうな岩の列が立つてゐる。丁度人間世界の境の石でゞもあるやうに、境の塁壁でゞもあるやうに、その岩の列が立つてゐる。その岩組の陰気な性質が、激しく打ち寄せる波で、一層気味悪く見える。その波は昔から永遠に吠えて、どなつて、白い、怪物めいた波頭を立たせてゐるのである。
 丁度僕とその男との坐つてゐる岩端に向き合つて、五|哩《マイル》か六哩位の沖に、小さい黒ずんだ島がある。打ち寄せる波頭の泡が八方からそれを取巻いてゐる。その波頭の白いので、黒ずんだ島が一際《ひときは》明かに見えてゐる。それから二哩ばかり陸《をか》の方へ寄つて、その島より小さい島がある。石の多い、恐ろしい不毛の地と見える。黒い岩の群が絶え絶えにその周囲に立つてゐる。
 遠い分の島から岸までの間の大洋の様子は、まるで尋常の海ではない。丁度眺めてゐる最ちゆうに海の方から陸の方へ向けて随分強い風が吹いてゐた。この風が強いので、島よりずつと先の沖を通つてゐる小舟が、帆を巻いて走つてをるのに、その船体が始終まるで水面から下へ隠れてゐるのが見えたのである。それなのに島から手前には尋常の海と違つて、ふくらんだ波の起伏が見えないのである。そこにもこゝにも、どつちとも向きを定めずに、水が短く、念に、怒つたやうに迸り上がつてゐるばかりである。中にはまるで風に悖《さから》つて動いてゐる所もある。泡は余り立たない。只岩のある近所だけに白い波頭が見えてゐる。
 その男がかう云つた。
「あの遠い分の島をこの国のものはウルグと申します。近い分の島をモスコエと申します。それから一哩程先に北に寄つてゐるアンバアレン群島があります。こちらの側にあるのがイスレエゼン、ホトホルム、ケイルドヘルム、スアルヱン、ブツクホルムでございます。それからモスコエとウルグとの間の所にあたつてオツテルホルム、フリイメン、サンドフレエゼン、ストツクホルムがございます。まあこんな風な名が一々付いてゐるのでございます。一体なんだつてあんな岩に一々名を付けたのだらうと考へて見ましても、どうもなぜだか分かりません。そら何か聞えますでございませう。それに水の様子が変つて来ましたのにお気が付きませんですか。」
 僕がその男とこのヘルセツゲンの巓へ、ロフオツデンの内側を登つて来てから、大約十分位も経つてゐるだらうか。登つて来る時には、海なんぞは少しも見えなくて、この巓に出ると、忽然《こつぜん》限りもなく広い海が目の前に横たはつてゐたのである。連の男が最後の詞《ことば》を言つた時、僕にも気が付いた。なんだか鈍い、次第に強くなつて来る物音が聞えるのである。譬へて見ればアメリカのプレリイの広野で、ビユツフアロ牛の群がうめいたり、うなつたりするやうな物音である。
 その物音と同時に僕はこんな事に気が付いた。航海者が「跳る波」といふやうな波が今まで見えてゐたのに、忽然そこの水が激烈な潮流に変化して、非常な速度を以て西に向いて流れてゐるのである。見てゐるうちに、その速度が気味の悪いやうに加はつて、劇《はげ》しくなる。一刹那一刹那に、その偉大な激動が加はつて来る。五分間も経つたかと思ふと、岸からウルグ島までの海が抑へられない憤怒《ふんど》の勢ひを以て、鞭打ち起された。中にもモスコエ島と岸との間の激動が最も甚しい。こゝでは恐ろしい広い間の水の床が、生創《なまきず》を拵へたり、瘢痕《はんこん》を結んだりして、数千条の互に怒つて切り合ふ溝のやうになるかと思ふと、忽然痙攣状に砕けてしまふ。がう/\鳴る。沸き立つ。ざわつく。渦巻く。無数の大きい渦巻になつて、普通は瀑布の外には見られないやうな水勢を以て、東へ流れて行くのである。
 又数分間すると、景色が全く一変した。水面は概して穏になつた。そして渦巻が一つ/\消えてしまつた。それに反して今までちつとも泡立つてゐなかつた所が、大きい帯のやうに泡立つて来た。この帯のやうなものが次第に八方に広がつて、食つ付き合つて、一旦消えてしまつた渦巻のやうな回旋状の運動を為始《しはじ》めた。今までの渦巻より大きい渦巻を作らうとしてゐるらしい。
 忽然と云つても、そんな詞ではこの急激な有様を形容しにくい程、極端に急激に、水面がはつきりと際立つてゐる、大きい渦巻になつた。その直径が大約一哩以上もあるだらう。渦巻の縁の所は幅の広い帯のやうな、白く光る波頭になつてゐる。その癖その波頭の白い泡の一滴も、恐ろしい漏斗《じやうご》の中へ落ち込みはしない。漏斗の中は、目の届く限り、平らな、光る、墨のやうに黒い水の塀になつてゐる。それが水平面と四十五度の角度を形づくつてゐる。その塀のやうな水が、目の舞ふほどの速度で、気の狂つたやうにぐる/\旋《めぐ》つてゐる。そして暴風《あらし》の音の劇しい中へ、この渦巻が自分の恐ろしい声を交ぜて、叫び吠えるのである。あのナイアガラの大瀑布が、死に迫る煩悶の声を天に届くやうに立てゝゐるのよりも、一層恐ろしい声をするのである。
 山全体も底から震えてゐる。岩も一つ/\震えてゐる。僕はぴつたり地面に腹這つて、顔が土に着くやうにしてゐて、神経の興奮が劇しい余りに、両手に草を握つてゐた。
 やう/\のことで僕は連の男に云つた。
「これが話に聞いたマルストロオムの大渦巻でなければ、外にマルストロオムといふものはあるまい。これがさうなのだらうね。」
 連の男が答へた。
「よその国の人のさういふのがこれでございますよ。わたくし共|諾威人《ノルエイじん》は、あのモスコエ島の名を取つてモスコエストロオムと申します。」
 僕はこの渦巻の事を書いたものを見たことがあるが、実際目で見るのと、物に書いてあるのとは全く違ふ。ヨナス・ラムスの書いたものが、どれよりも綿密らしいが、その記事なんぞを読んだつて、この実際の状況に似寄つた想像は、とても浮かばない。その偉大な一面から見ても、又その恐るべき一面から見ても、さうである。又この未曾有《みそう》なもの、唯一なものが、覿面にそれを見てゐる人の心を、どんなに動かし狂はすかといふことも、とても想像せられまい。一体ヨナス・ラムスはどの地点からどんな時刻にこの渦巻を観察したのか知らない。兎に角決して暴風の最ちゆうにこのヘルセツゲンの山の巓から見たのではあるまい。併しあの記事の中に二三記憶して置いても好い事がある。とても実況に比べて見ては、お話にならないほど薄弱な文句ではあるが。
 その文句はかうである。
「ロフオツデンとモスコエとの中間は、水の深さ三十五ノツトより四十ノツトに至る。然るにウルグ島の方面に向ひては、その深さ次第に減じて、如何なる船舶もこの間を航すること難し。若し強ひてこの間を航するとき
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