な客を見ると「まだ東京にも粋な人がいるなァ」となつかしく思うことがあります、と話していました。
しかし近来大衆は、蕎麦の味を本位にする人が少なくなって、ごたごたしたものを好むようになったようであります。次に蕎麦の味について二、三の方々の説を略記して御参考に供してみましょう。
佐々木博士の話
「蕎麦が売れなくなったということで、蕎麦に色をつけると話を聞いたが、それはよいことだと思います。豆の粉で色をつけることは栄養上からしても悪いとは思いません。色素からしても青竹色は悪くはない。蕎麦が段々売れなくなったということは、近頃の若い人達は風味ということなどはあまり考えないようであります。私も女学校などへ行っていますが、学校では栄養価のみをいって風味などは全然おるすであります。私も蕎麦好きの方で、一週間のうちに蕎麦を食べない日は二日位です。栄養価が分ったのですから、早く皆人達に食べさせたいものだと思います。今は時代の変わり目でしょう。昔の人は風味をいいましたが、今の人は栄養を主とします。それには牛乳を混ぜるとか卵を混ぜるとかいうこともよいと思います。食べて悪い感じさえしなければ、それと蕎麦の本質を考えて、何を混ぜるにしても栄養価を失わぬようにしたい。饂飩の中に蕎麦を混ぜてもよい。そうすると今の蕎麦と同じものになるかもしれないが」と話されたことがある雑誌に書いてありましたが、著者が思うに、佐々木先生としては栄養学者の第一人者でもあり、また蕎麦研究については最も権威者でありますから御説もごもっともと存じますが、しかし著者も栄養研究所に在職中、栄養ということを主として、饂飩や蕎麦に先生の前説のごとくバターとか牛乳、煮干粉など種々なものを粉に混じて打って料理したこともありましたが、旨いとは思いませんでした。時としては旨いと感じるものもありますが、これも一時的のもので、度々食べるとあきが来て、結果蕎麦は蕎麦切として食べた方が旨くなって来るようであります。女学校で料理を教えるように、栄養々々といっていては栄養となるべきものも結果、不栄養となることも多くなりはせぬかとも存じます。一例を申しますと、最も栄養価のあるものでもその人の嗜好に合わぬものはしたがって旨い感じをいたしませんから、まずいまずいと思って食べたものは、さのみ栄養にもならぬものと存じます。
近頃の学校方面の人は栄養病にかかっているようで、実際栄養の摂り方を知らぬのではありますまいか。過言のようではありますが、実際蕎麦切としては、蕎麦切の味がなければ別に蕎麦でなくとも他に栄養豊富なものも沢山ありましょう。支那蕎麦のごとく蕎麦そのものに味のなきものであれば、汁やかやくをごたごたにして蕎麦の味を食うのでなく、かやくや汁を食べることになってしまうのであります。十人十色と申しますが、そのうち食物ほどまちまちのものはないということができます。なぜならば、著者自身のことでありますが、子供の時に食べたものとまた青年時代に食べたものと五十余歳になった今日とは、全く食物の味、否《いな》嗜好が変わって来るようです。これは著者のみでなく一般の人々もそうであろうと考えます。で、蕎麦そのものには蕎麦としての栄養価があり、またしたじ(汁)にはしたじとしての栄養価があり、あるいは他に使用する品々もそれぞれの栄養価を持ち、蕎麦切として打つには、鶏卵も多少なりとも用い、山の芋や自然薯のごときを使用している訳ですから、特別蕎麦粉の良質であって風味良い粉の中へ混和物をしてまずくして食べないでも、蕎麦そのものの料理の仕方によって他にいくらも栄養分を摂ることができようと存じます。これは学者先生方に対し失礼なる言葉と存じますが、料理者として一言付記すると共に御指導のほどを書中ながら願う次第であります。
堀内中将の話
お国自慢、信州蕎麦。あれには昔から食い方があります。大根をおろした絞り汁に味噌で味をつけ、葱の刻みを薬味とし、それへ蕎麦をちょっぴりとつけて食うのであります。ただし蕎麦は勿論、大根、葱、それぞれに申し条があります。
大根は、練馬あたりで出るような軟派のものではいけません。あんなに白くぶくぶくに太ったのは、水ばかりで駄目であります。アルプス山麓あるいは姨捨山などの痩土に、困苦艱難して成長したものであって、せいぜい五寸、鼠位の太さになっているものに限ります。同じ信州でも川中島や松本平のものではやはりいけません。これをゆっくりと力を入れておろし、力を入れて絞ると、ぽたりぽたりと汁が出ます。肥土のところへできたやつは、絞ればしゃあしゃあ水のように出ますが、水飴のように濃く固まってぽたりと落ちます。これは大根に「のり」があるといって旨いし、第一ひどく辛いのであります。
味は、味噌でもよいが、醤油でもよいのでありま
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