して、二、三日で作って頂き早速実行いたしました。最初はどうしても物足らぬところがあって、信州の人達の助言によって改良したところ、蕎麦だけで、これはまた案外どころではない、とても旨いものができるようになったのであります。
道具も簡単であり調理も楽にでき、しかも北大栄の倉庫には昨年(七年)の収穫した蕎麦が五十石もあったので、製粉のできる範囲において「手おし蕎麦」の煮込みに舌鼓を打とうと、一日一回は朝食といわず夕食といわず、煮込み蕎麦で結構いけます。東京辺で生粋の「蕎麦の味」を売り出したらどうかとも思う位であります。東京有数な藪忠ではむしろ道楽商売になっていて、東京蕎麦の真の風味を常に楽しむことは不可能といってよい。半分の「つなぎ」を入れているのはまだ正直な方で、近来は小麦粉に色をつけて胡魔化しているのが多いのであります。
これというのも技術が非常に難しくて、これだけの職人を養っていては「蕎麦屋」が立ってゆかぬために、漸次「今様の蕎麦」がはびこり出したのではあるまいかと思います。
例の食道楽の大谷光瑞氏も、真の「蕎麦」の風味は太くして切れ切れのでなくては本当でないとまで負おしみをいっておられる位で、これほどまでにそばの真の風味をなつかしみ、求めている日本人が何故にこの満州人に知識を借りなかったのであろうかと思います。
今までの日本人は、あまりに彼等を軽蔑し、あまりにお高くとまっていたのではありますまいか。眼を開けば到る所師ありで、人もあなどり、ものをいやしむ心の生じた時向上はない。今までの満州植民者が食物の点において、確固たる方針を定め得なかったのも、一面はかかる心持ちにわずらわされていたものではありますまいか。軽侮する者はまた恐るという通り、一方にはむやみに支那農民の食物は粗食でついてゆけぬと考えていると同時にまた反面、包米ビーンズに高粱飯を食わねば満州農業移民は成立せぬなどといっています。「閑話休題」蕎麦は栄養価値中[#「蕎麦は栄養価値中」に傍点]、重要の地位を占むるところの蛋白質に関して穀類中まことに優良なるものを含有しています。
鈴木梅太郎博士が「満州に蕎麦のできることは満州植民者にとって実に幸福なことである」といわれるのもこの料理法であってはじめてうなずかるるものであります。(『糧友』第八巻第九号による)
蕎麦の真味
何に限らず、料理し過ぎたもの
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