、明治とともに心から微笑まれるものがある。
祖父は自分としては学者として一貫して生きようとしたようだが、官吏としていろんな役がついたことは家庭の空気をいつしか変え、祖母にしろ昔辞書を手写した時代のままの気分ではなかったらしい。千賀というひとの性質は祖父と反対の現実家で、美しい、烈しいところのある顔にもそれはつよくあらわれていた。或る秋の午後、ひっそりとした向島の家の縁側の柱に縮緬の衣類の裾をひいた祖母がふところでをしてもたれかかっている。その片方の素足を、源三という執事が袴羽織で庭石にうずくまって拭いてやっている。島田に紫と白のむら濃の房のついた飾をつけ、黄八丈の着物をつけた娘が、ぼんやりした若々しさを瞳の底に湛えて、その様子を見ている。そんな情景は紫檀の本箱のつまった二階の天地とは異った人間くささで活々としている。祖父は井上円了の心霊学に反対して立会演説などをやったらしいが、祖父の留守の夜の茶の間では、祖母が三味線をひいて「こっくりさん」を踊らしたりした。夫婦生活としてみれば、血の気が多く生れついた美人の祖母にとって、学者で病弱で、しかも努力家であった良人の日常は、欝積するものもあったろう。祖父はお千賀、お前は親に似ない風流心のない女だな、とよく云っていたらしい。祖母の家は茶が家の芸だったのだそうだ。祖母が茶をたてるのは一遍もみたことがない。その代り浅草の鰻屋へはよくつれて行って貰った。趣味にしても人の好悪にしても祖母はどこまでも現世的であったと思う。
後継ぎになる筈の一彰さんという人は、大兵な男であったが、十六のとき、脚気を患った後の養生に祖母はその息子を一人で熱海の湯治にやった。そこでお酌なんかにとりまかれて、それがその人の一生の踏み出しを取り誤らせることになり、廃嫡となった。大きい一彰という人が白縮緬の兵児帯に白羽二重の襟巻なんかして、母のところを訪ねて来たのを覚えている。この伯父は、母に向ってもやっと膝に手をおいたままうなずくだけであった。そのひとの子が家をつぐことになっていたのがやはりごたついて、流転生活の最後は哀れな死にようをした。そのひとは、母に向って、おばさん、僕は五つから質屋通いをやらされたんだよ、察しておくれ、といって泣いた。
祖母は、その孫より先に八十九歳の生涯を終ったが、生きているうちから、私はお祖父様には面目なくてと云っていたが、遺
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