のつくる列の真意をさとらせていたのだと思う。列は、儀礼と礼節とのためにもつくられるけれど、列が生じるのは、一に対する十の必要が動機である。そこに列の生きて脈搏つ真の動脈がひそめられている。その脈搏は生きものだから、事情によっては搏ちかたも変って来る。列というものは元来が案外動的な本質をふくんでいるのである。
 それやこれやから、国民生活の中に列が多種になり、長くなり、どっさりになるにつれて、謂わば列そのものが国民の身をもって示している課題の種類の多さと複雑さとさし迫った解決の必要を語るものであることは興味ふかい点だと思われる。市民の生活における列の問題は、ともかく誰でも列をつくるようになって一応混雑がふせげるようになったからいいのだとは云えなくて、さてこの頃は誰でも自然列をつくるようになったのだからな、と却ってそれから先に本当のとかれるべき問題がひかえていることを強調されなければならないところに意味がある。
 旧のお盆にかけて、上野駅の大雑踏はあらゆる都下の新聞に写真を入れて報じられた。列は改札口にぎっしりつまって構内から溢れ、蜿蜒《えんえん》と道路を流れて山下の永藤《ながふじ》パンの前まで続いた日があったそうだ。何とも云えない光景だったとそれをみた人が印象をつたえた。予定した汽車に乗れないどころか、いつの汽車にのれるか当もないのに、しかし列をはなれたら金輪際切符は買えないのだから暑中の歩道に荷物を足元におき、或はそれに腰かけて苦しそうに待っている老若男女の姿は、確に見る人々の心に、何となしただごとではない今日の一局面を印象づけたにちがいない。
 東京駅を出入りする旅客たちとはちがって、ふだんでさえ上野へ着き上野から東北に向ってゆく旅人たちにはどことなく生活の陰翳が濃い。皮膚や体つきが生活を語っているような人々が集る。荷物もその陰翳にふさわしくて、たとえば真新しいバスケットを提げていれば、その真新しさに或る悲しさがあるような雰囲気である。そのような上野独特の旅客が山下まで溢れた中には、旧盆に故郷へかえる男女の産業戦士が大部分を占めていることも新聞に報告された。
 同じ頃にやはり新聞が、青少年男女の産業戦士の病気になる率が急騰していることを報じていたことは、その上野駅頭の大群集の写真との対照で、今なお生々しく私たちの感銘に刻まれていると思う。去年の春ごろ、同じような荷
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