しきたりに対しては反抗しきっていない。女が結婚するとわるくなるという例から見て、何が女の人間性を結婚において害《そこな》うのであろうか。結婚、家庭生活の中にある何のバチルスが、その結合に入った男女を傷けるかという拡大された視野へ、この意味深い懐疑を展開させてはいないのである。
女が結婚するとわるくなるということが一面の事実であるとして、その理由となる諸事情は微妙であるが、日本の社会のしきたりが女により多く課しているもの、結婚についての男の我知らずの便宜的な考えかた、日常的な家内安全の運行がせちがらい世に女のやりくりに中心をおいていることなど、いずれも家庭にある女の精神に強いさわやかな羽搏きは与えないのである。漱石は家庭の考えかた形づくられかたに対しては根本的な疑問は表面に出さず、その枠内でいつも人間性、智性と俗物性の葛藤、自我の相剋をとりあげている。これは漱石の芸術と生活態度との歴史的な特色の一つである。荷風が今日においてもそれと正面にとりくむことはせず、自身の好みとポーズにしたがって避けて生きている人間の社会的結合の形としての結婚や家庭内の問題を、漱石は正面から時代の良識の前に押し出しつつ、彼の生きた歴史と文学の性質は、社会の鏡としての結婚、家庭そのものの在りようを痛烈な疑問として提出せず、苦痛の間を低徊する精神の姿で描写したのであった。
今日、私たちの周囲にある文学作品が、こののこされた意味深い矛盾、テーマを、どのように発展させているであろうか。日本の女の生活の現実が、どのように自らこのテーマを押しすすめて来ているであろうか。
風俗画としての面から今日の文学を見れば、たとえば丹羽文雄氏によって描かれている女の姿も一箇の絵図であろうし、菊池寛氏の家庭、恋愛観も常識というものの動きを除外していえば最もひろい底辺を示しているであろう。
だが、明治の初頭、『女学雑誌』を発行した人々が胸に抱いていた情熱、日本では半開のままで次の波をかぶってしまった男女の人間的平等への希望は今日どのような変貌をとげて、どこに生きつづけているであろうか。今日のロマンティシズムさえ日本では女を封建の姿にポーズせしめようとするところに、一言にして尽すことのできない重いせつない未来へ向っての努力への呼び出しがかくされているのである。[#地付き]〔一九三八年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「国文学解釈と鑑賞」
1938(昭和13)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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