歴史と文学
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地から1字上げ]〔一九四一年五月〕
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 文学と歴史とのいきさつは、極めて多面で動的で、相互の連関の間に消長して行っているのが実際だと思う。
 この頃は、世界が一つの大きい転換に立っているということから、おのずから歴史への関心がたかまって、文学と歴史との課題もあちこちでとりあげられているのだが、文学における歴史の関係は、直接歴史を題材にした歴史文学だけの範囲にとどまらないところに私たちの考えるべき面白さがある。
 歴史とは過ぎ去った時代に私たちの祖先が如何に生き、如何に文明を進め、如何に死したかという業績の集成であるわけだが、例えばそういう過去の事実が客観的に事実そのもののまま、今日の文学の素材として生かされ得るのであろうか。
 文学作品そのものも、古典となってのこされているものは歴史の一面の宝玉であるわけだが、文学に於ける伝統としての歴史が今日果して、自然に創られた時のままの完璧さでそれらの古典をつたえるに堪えているだろうか。
 歴史と文学との交渉で、この節は、今日との関係において過去を観るという点が強調されて来ている。歴史文学というにしろ、ただ髷物であれば歴史文学であるという考えかたに反対し、同時に、今日の現実にとり組んで行きにくいからと逃避の方向で歴史の中に素材の求められる態度も、正しい歴史文学への理解でないとするのが、高木卓氏などの見解に代表されている。飽くまでも今日の現実との活きた関係で歴史が文学の中に観られなければならないとする考えかたは正当だと思える。
 今日との関係で歴史を観るという場合、一方から云えば私たちが今日に生活し感情しているという動しがたい真実から、その規定は至極わかりやすいことのようにも思える。けれども、半面に案外複雑な文学上の困難を含んでいるのではないだろうか。
 何故なら今日というものは歴史としてまぎれもない今日の性格をもっている。その性格はよしあしを別として現在時々刻々極めて強烈な発動をしているのだから、歴史文学者が、今日との連関で歴史を文学化してゆくに当っては、先ず、今日という時代そのものへの一定の解釈が是非なくてはならないことになって来る。
 今日という歴史の性格をどう捕えてゆくか。ここにはお
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