まだまだひとにも話せる悲劇の部類であった。
 疎開、転入制限、これらも大幅に日本の家庭を破壊した。経済事情の極度の不安定。これも今日の離婚の動機をなす最も大きい理由である。これらの諸理由が離婚の動機になるほど、これまでの結婚というものが、日本では、つよい愛に立っての結合ではなくて、「家」のためか「世帯」のためか、身のふりかたの問題であったわけである。

 日本のわたしたちは、結婚と離婚の自由ということについて、落着いて注意ぶかく現実的でなければならないと思う。何故なら、憲法や民法の上での男女の平等、結婚の自由、離婚の自由ということと、きょうの現実の不自由だらけで破綻した社会経済生活の実際との間には、おそろしいくいちがいがあるから。
 結婚の自由といくら民法できめられても、きょうの若い人々に果してそんなにのびのびした自由があるだろうか。先ず結婚して住むところがどこにあるだろう。一ヵ月の蜜月のために、田園の大きい館が用意されたのは、イギリスでもエリザベス王女ぐらいのものであろう。結婚しましょうよ、というわかい人々の決心は、すぐつづいて、でも家《うち》は? と問題にぶつかる。仕方がないから当分親たちと同居ということになったとき、民法が夫と妻とを単位とするからといって、若い妻に、嫁の慣習がおいかぶさって来ないと、どうしていえよう。夫婦で働いて生活してゆかなければならないものには、妻の家事の負担が、夫にとっても重大な課題である。日本のきょうの社会ではヤミのシャンパンはメチールをまぜてキャバレーの床に流れても、つつましい共稼ぎの若い夫婦の人生を清潔に、たのしくさせるカフェテリヤもなければ、オートマットもない。きょう、やかましい産児制限のことも、こうして、住む家をもたず、家事負担から解放されない若夫婦が、初々しい親となってゆく喜びさえ節約して、食べられない俸給に耐えてゆくための一条件のようでさえある。今日、産児制限は、優生学の立場からというよりは、むしろ民族の屈辱の一つとして、自主の策は何一つもたない今日の権力に対する母性の憤りの一つの対象としてあらわれているとさえいえる。
 離婚の自由が婦人にも認められ、民法はそれと同時に、離婚した婦人の経済的援助も含めている。このことは、しかし、本当に婦人にとって「個人の尊厳」を守れる社会的経済的土台があることを意味しているだろうか。
 婦人
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