裏毛皮は無し
――瀧田菊江さんへの返事――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凝《じ》っと
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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この間の邦語訳の椿姫の歌うなかに、この受取り(でしたか、書きつけでしたか)を御覧下さいということばがあったが、それが日本語で歌われるといかにも現実感がありましたが、昨今ではそのうたをうたうプリマドンナの腕も、ステイジ用のトランク運びで逞しくなるとは面白い世の中ですね。
ガソリン払底は、なるほど、郊外の奥にお住居だし、お仕事の関係上、直接でしょう。でもあなたのハンド・バッグのなかは豊富で、汽車がひっくりかえったときの内田さんのように、いくらでもとおっしゃるとすれば、マア豪勢みたいなものではないの。
私の方の状態は、先ず大笑一番しなければ、ものも云えないような有様でね。おかしいでしょう。八面六臂的欠乏で困ります。原稿紙というものが、この節ではなかなか只ごとならないものになって参りました。何しろちり紙から心配という次第ですから。こんなさっぱりと四角い紙に気持よく朱の線の通っている原稿紙がやがて、昔話になるかもしれませんね。
炭には困るわ。あなたのお仕事は羨しいと存じます。だって一心に練習なさっているとき、舞台にいらっしゃるとき、云ってみれば寒さ知らずでいらっしゃるでしょう。私たちのように凝《じ》っと机にかじりついているものは、冬は炭のいるのを気兼ねしいしいというのでやり切れないところがあります。第一に手がかじかんで、私のこの一ヵ月継続中の風邪のもとは、つい炭が途切れかかったときの記念です。
それにつれて、昔芥川龍之介の書いていた支那游記のなかのことを思い出します。或る支那の文人に会いに行ったら、紫檀の高い椅子卓子、聯が懸けられたまるで火の気のない室へ通された。芥川さんは胴震いをやっと奥歯でくいしめていると、そこへ出て来た主人である文人が握手した手はしんから暖く、芥川さんは部屋の寒さとくらべて大変意外だったそうです。
どうしてそんな手をしてこの火の気のない室に莞爾としていられるのかと、猶も胴ぶるいをこらえつつ観察したら、その文人の長上着の裏にはすっかり毛皮がつけられていたそうです。私たちも、そんなあんばいにやりとうございますね。
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