から……」
 なみが本当に少しあわてたように、
「困りましたねこれはどうも。出たいようだが九貫は辛いわね」
と、古風な束髪をピンで掻いた。
「じゃ特別八貫にまけます」
 縫子は勝負の間じゅう口らしい口は利かなかった。登美が直き嬉しがったり悲観したりするのを姉らしく笑いながら、時々英輔に助けて貰い、また彼の札を覗き込み、遊んだ。彼女は上気せ幸福そうにあたたまっている。背中を少しかがめ体じゅうどこにも力らしい力がなくて若い婆さんのような様子が現れた。縫子は仕合わせを感じていると、多くの若い娘のように活溌に敏捷にならず、腕に力のないような、よたよた歩みをしそうなところが出来るのであった。
 十時頃。
「さあ、これでお仕舞」
と英輔が先に札を投げ出した。
「ああああ、すっかり熱中しちゃった」
 勘次郎は煙草をつけ仔細らしく云った。
「やっぱりトランプなんかより面白いね日本人には」
 なみが、
「さあお口がせっついているでしょう皆さん」
と云いながら台処へ立った。
 英輔は側にあった婦人画報を見始めた。登美が一緒に覗いた。
「英兄さんどんな人がすき?」
「さあね、どれもすき」
「本当は? あ、この人はどう」
 口で冗談云いながら、英輔が眼では割合一心に見るのが縫子に感じられた。彼女は無関心そうに南京豆を鑵に戻し始めた。
「英兄さん、どんな奥さんがよくて。――ハイカラな人?」
「ハハハハ単刀直入だね登美っぺは。――田舎っぺえは御免だよ」
「英語が話せたり、ピアノが弾けなくちゃいけないのね、そんなら……」
「ピアノなんかどうだっていいさ」
 ぱらぱらと夥しい令嬢の写真版つきの雑誌を翻したが、英輔はふと真面目に傍に縫子のいることなど念頭にない自然さで考え深く呟いた。
「これからは女もせめて専門学校位出ていないじゃ駄目だな」
 南京豆は鑵の中へ落ちるたんびに喧しい音を立てていたが、縫子はこれを聞洩すようなことはなかった。南京豆が千落ちる音よりこの呟きは大きい。――
「――姉さんたら。母さんが呼んでるじゃないの。……駄目よまたぼんやりしちゃっちゃ」
 縫子は初めて気がつき、のろのろ台処へ立って行った。

 縫子は明る日から再び六畳に現れ、お針子の仲間に加った。再び地袋の前に坐っている彼女を見て、もういいのと訊く者さえなかった。
「縫子さんお早う」
「お早う……」
 昼休みに米が大菩薩峠を音読して皆に聞かせた。「『まず御免なせえまし』そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾を投げ出したのは、なるほど裏宿の七兵衛でありました」
「ちょっと、そこに縫ちゃんいますか」
 爪を剪りながら大した感興もなく、油ののった米の声を聴いていた縫子は、小鋏を置いて襖をあけた。茶の間に行って見ると、水口から茶色のスウェタアに洋袴《ズボン》をつけた勇が帰って行ったところであった。縫子は黙って長火鉢の向う側に来て蹲んだ。
「困っちまうわね、山科さんところ、また一騒動したんですってさ」
 縫子は、灰をいじくりながら唇を歪めた。
「二三日頼みたいって云うんだけれど――どう? どうせお裁縫も間だしするから行ってあげなさいな」
 縫子はつい先日、今泉の細君の義理のある家で手不足だというので頼まれ、十日もいやな思いをして手伝って来たばかりであった。
「また別なところじゃありませんか。――それにその皸で家にいたってお洗濯一つ出来ないんだもの。――」
「…………」
 暫く黙って長火鉢に拭布をかけながら、やがてなみがいいことを思いついたというように云った。
「ああ本当に! 今度は山科さんに何と云われても永く借しちゃ置けない。――二十日に御法事があったもの。是非その日は帰ってもらわなくちゃならないから今日が――何日? もう十六日でしょう、ほんの僅だ、行って上げなさい」
 行くとも行かぬとも返事をせず、秋日和を自分の体で堰いていくらか暗い鉄瓶のところをみつめているうちに、縫子は妙に情けない気持になってきた。当のない暮しという思いが身に徹えて感じられた。今度はここへ行く。またあそこへ行く。そうやっている自分に何ともいえず哀れっぽいものが感じられる。縫子は涙ぐんだ。するとなみが、お針子を憚って低い声で、
「なんですね」
とたしなめた。
「そんな意久地のないことでどうなります。何も涙なんぞ出すことないじゃないの」
 強く云われると縫子は音も立てず一層涙をするする頬につたわらせた。なみは当惑そうにそれを見ていたが、
「どうしてそうでしょうね」
と歎息した。そして縫子の生れたままの弱い不活溌な心に霧のようにいつもかかっている一種の生存の苦しさなどにはまるで心づかず、
「晩にでも大村さんへ行って診てもらって来なさい、よほどどうかしているもの」
と勧めた。



底本:「宮本百合子全集 第二
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