を音読して皆に聞かせた。「『まず御免なせえまし』そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾を投げ出したのは、なるほど裏宿の七兵衛でありました」
「ちょっと、そこに縫ちゃんいますか」
 爪を剪りながら大した感興もなく、油ののった米の声を聴いていた縫子は、小鋏を置いて襖をあけた。茶の間に行って見ると、水口から茶色のスウェタアに洋袴《ズボン》をつけた勇が帰って行ったところであった。縫子は黙って長火鉢の向う側に来て蹲んだ。
「困っちまうわね、山科さんところ、また一騒動したんですってさ」
 縫子は、灰をいじくりながら唇を歪めた。
「二三日頼みたいって云うんだけれど――どう? どうせお裁縫も間だしするから行ってあげなさいな」
 縫子はつい先日、今泉の細君の義理のある家で手不足だというので頼まれ、十日もいやな思いをして手伝って来たばかりであった。
「また別なところじゃありませんか。――それにその皸で家にいたってお洗濯一つ出来ないんだもの。――」
「…………」
 暫く黙って長火鉢に拭布をかけながら、やがてなみがいいことを思いついたというように云った。
「ああ本当に! 今度は山科さんに何と云われても永く借しちゃ置けない。――二十日に御法事があったもの。是非その日は帰ってもらわなくちゃならないから今日が――何日? もう十六日でしょう、ほんの僅だ、行って上げなさい」
 行くとも行かぬとも返事をせず、秋日和を自分の体で堰いていくらか暗い鉄瓶のところをみつめているうちに、縫子は妙に情けない気持になってきた。当のない暮しという思いが身に徹えて感じられた。今度はここへ行く。またあそこへ行く。そうやっている自分に何ともいえず哀れっぽいものが感じられる。縫子は涙ぐんだ。するとなみが、お針子を憚って低い声で、
「なんですね」
とたしなめた。
「そんな意久地のないことでどうなります。何も涙なんぞ出すことないじゃないの」
 強く云われると縫子は音も立てず一層涙をするする頬につたわらせた。なみは当惑そうにそれを見ていたが、
「どうしてそうでしょうね」
と歎息した。そして縫子の生れたままの弱い不活溌な心に霧のようにいつもかかっている一種の生存の苦しさなどにはまるで心づかず、
「晩にでも大村さんへ行って診てもらって来なさい、よほどどうかしているもの」
と勧めた。



底本:「宮本百合子全集 第二
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