いんですね、しまっときますよ」
ただ虫が喰っただけだとは思ったが、由子はそのまま黙っていた。
その紫の小さい前掛に特別な連想や思い出がある訳ではなかった。ただ、平常《ふだん》前掛をしない由子が、何年か前、気まぐれに拵えた紫前掛、その色の古風なところも、そのまま偶然虫に喰われながら出て来て見ると憎らしい心持もしない。ホホウ! そして何だか微笑まれる。紫の布《きれ》ッ端《ぱし》とばかり感じられない親密さがあるのであった。
宏やかな自然の風景を写している由子の意識の上に暫く紫の前掛が鄙《ひな》びた形でひらひらした。段々その幻影がぼやけ、紐だけはっきり由子の心に遺った。紐は帯留めのお下りであった。あの帯留は母が買って来た。「まあこんな廉《やす》いものがあるんだね」そう云って由子の前へ出して見せた。「するのならあげよう」由子が平常にしめているうちに、真中に嵌《はま》っていた練物の珠みたいなものが落っこちてしまった。珠みたいなものは薄紅色をしていた。……
由子は、今も鮮やかにぽっくり珠の落ちた後の台の形を目に泛べることが出来た。楕円形の珠なりにぎざぎざした台の手が出ているのが、急に支える何
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