した。向い側でお千代ちゃんが木炭紙へ墨で幾枚も絵を描いた。女の絵であった。
「――お千代ちゃん絵うまいのね」
「そーお。――私絵やろうかしら」
由子は頭をふり上げ、
「いいわ、そりゃいいわ」
と熱心に賛成した。
「お千代ちゃん絵はきっといいわ、お遣《や》んなさい、ね? する? きっとする?」
*
けれどもお千代ちゃんは絵もやらず、そのうち、祖母さんの家からいなくなった。木戸を入って行って由子は訊いた。
「お千代ちゃんどこへ行ったの」
「神戸のおばさんのところへ行ったんですよ」
「いつ帰るの?」
「もう半月ばかりで帰りますよ」
「神戸のどこなの?」
「……ああ、由子さん、そのコスモスお持ちなさい、今|剪《き》ってあげましょうね」
お祖母さんという人は、親切な人であったがそういう風な返事をした。
再びお千代ちゃんの顔を見た時、由子は「ひどいわ、黙って行っちゃうなんて!」
と云った。
「御免なさいね。――あのね――誰にも云わないでね……私本当は神戸で小母さんなんかのとこにいたんじゃないのよ。嘉久子のところにいたの、手伝いしながら見習いしていたの。――何にも、まだ教えてくれないけれど……」
「――女優になるの?」
お千代ちゃんは黙って頸を下げた。その時、由子は、紅玉《ルビー》色の、硝子の、薔薇《ローズ》カットの施こされた簪《かんざし》をお千代ちゃんのたっぷりした束ね髪の横に見たのであった。
是非お千代ちゃんは神戸へ行かなければならなかった。由子は自分の髪の毛で、小さい三つ組を拵え、指環のような形にし、餞別にそれをお千代ちゃんにやった。
二三年後お千代ちゃんに再び会った時、彼女は銀杏《いちょう》がえしに結った芸者であった。――
稚かった自分に全然解らなかった生活の力が、お千代ちゃんを動かしていたことを理解し、由子は、高燥な夏の真昼の樟の香が鼻にしみるような心持になった。
由子は遠く山巓《さんてん》に湧き出した白雲を見ながら、静かに心の中で愛する紅玉色の硝子玉を撫で廻した。
後 記
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この一篇を書き終った時、私の胸は別れて久しいお千代ちゃんの懐かしさで一杯であった。我が小さく拙《つたな》い毛の指環よ。ひろい世の中へ出て行って、どこかで、どのようにか、彼女の生活を送っているだろうお千代ちゃんにめぐり遇え。
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底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「若草」
1927(昭和2)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
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