ものも無くなった。それでもぎざぎざは頑固にぎざぎざしている。掴んでいるのは空《くう》だ。空っぽの囲りで、堅い金具が猶もそのような恰好をしているのを見るのは厭な気持であった。
それで自分は前かけの紐にしてしまったのだ。
ふっと、由子は心の隅に、更にもう一つの紅い玉を思い泛べた。帯留の練物のような薄紅色ではない。その玉は所謂|紅玉《ルビー》色で、硝子で薔薇《ローズ》カットが施こされていて、直径五分ばかりのものだ。紅玉色の硝子は、濃い黒い束ね髪の上にあった。髪の下に、生え際のすんなりした低い額と、心持受け口の唇とがある。納戸の着物を着た肩があって、そこには肩あげがある。
目で見る現在の景色と断《き》れ断《ぎ》れな過去の印象のジグザグが、すーっとレンズが過去に向って縮むにつれ、由子の心の中で統一した。
*
由子はお千代ちゃんという友達を持っていた。由子の唯一の仲よしであった。由子が小学校の六年の時、お千代ちゃんは五年で、仲よしになったのはどんな動機からであったか、由子はもう思い出せない。六年と五年の女生徒が連合で四組舞踏《クワドリール》を踊った。先生も無心、生徒も無心、少し退屈を感じながら藤の花の散る下で、オルガンに合わせ、
一二三四《イチニーサンシ》、五六七八《ゴーロクシチハチ》
一二三四《イチトニトサントシト》、五六七八《ゴトロクトシチトハチト》
先生は男で白縮《しろちぢみ》の襯衣《シャツ》だ。そのような伸びたり縮んだり輪になる間に、お千代ちゃんと親しくなったのか。
由子はお千代ちゃんと一緒にかえる為に、女学校が退けると小学校まで廻った。お千代ちゃんが当番で、二人並び東片町の大通りを来ると、冬など、もう街燈が灯っていることもあった。
*
由子とお千代ちゃんは歌をうたった。
阿蘇の山里秋更けて
眺め淋しき冬まぐれ
…………
お千代ちゃんは内気らしく、受け口を少しあいて、低い声で歌った。由子は自分の肩をお千代ちゃんの肩にぴったりつけ、顔を上に向け、恍惚と声張り上げてうたった。
お千代ちゃんは、地味な白絣の紡績の着物に海老茶袴をつけている。
小学校を最優等でお千代ちゃんは卒業し、日比谷公園へ行って市長の褒美《ほうび》を貰った。その時、お千代ちゃんはやっぱり地味な紡績の元禄を着て海老茶袴をつけて出た。新聞が、それを質素でよいと褒《ほ》めた。由子は、そうは思わなかった。いい着物をお千代ちゃんに着せたかった。あって着ないのではない。お千代ちゃんの家は貧しいのを、由子は知っていた。
お千代ちゃんが、由子の家から三町もない処へ越して来た。家じゅう引越して来たのではなく、お千代ちゃんだけ、お祖母さんのところへ来たのであった。いきなり木戸で、入ると花が一杯縁側まで咲きこぼれていた。縁側から油障子のはまった水口が見え、その障子が開いていると、裏の生垣、その彼方の往来、そのまた先の×伯爵の邸の樫の幹まで三四本は見られる。
*
お祖母さんの家はそのような家なのであった。二階があった。そこに叔父さんがいた。その人は絵描きであった。
お千代ちゃんは、由子の入った女学校の試験を受ける積りであった。由子はどうかして入って欲しいと思った。女学校をずっと二人で通えたら、それは素晴らしいことだ。由子は勿論お千代ちゃんは容易《たやす》く試験を通るとその学力を信頼していた。そうでもなければ、市長からわざわざ御褒美を貰い、新聞で紡績の装《なり》を褒められたとて何になろう。
然し、お千代ちゃんを助けるつもりで、由子は自分の家で、一つ机でお千代ちゃんと一緒に勉強した。書き取りを読んだ。母に頼んでお千代ちゃんの為に歴史や地理の問題を出して貰った。
*
試験の日、由子はお千代ちゃんを試験場の、青い小さい席のところまで送って行った。
「勿論大丈夫だけれど、確《しっ》かりね」
お千代ちゃんは、受け口の唇に笑を浮べながら合点をした。昼になった時、由子はパンを買って来て、二人で食べた。そこは花壇の隅の狭い芝生の上であった。ニコライの鐘楼と丸屋根が美しく冬日に輝いて、霜どけの花壇では薬草サフランと書いた立札だけが何にも生えていない泥の上にあった。由子はうっとり――思いつめたような恍惚さで日向ぼっこをした。お千代ちゃんは眩しそうに日向に背を向け、受け口を少しばかり開け、煉瓦の際まで押しよせてその上に這い上ろうとしている芝の根を眺めていた。
実に思いがけずお千代ちゃんは試験に通らなかった。
*
学校から帰ると、由子は出かけて行ってお千代ちゃんを呼び、大抵自分の方へつれて来た。一つ机で、由子は方丈記を写
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