面積の厚み
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)絣《かすり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)必然|横《よこた》わっている
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或る年の冬が、もう少しで春と入れ換ろうとしていたある朝のことである。
A小学校の、古びた二階建の一番西端れの教室では、もう一ヵ月ほどのうちに義務教育を終ろうとしてい、引き続き入学すべき学校の、試験準備にせわしかった六学年の女生徒が、ざっと五十人許り数学の課業を授けられていた。
しめっぽい柔かな空気が、久し振りで明け渡したたくさんの窓々から快く流れ込んで来て、しんの暖かい日光が、直ぐ窓下に突出ている事務所の屋根瓦から、黒板の面へ穏やかに反射している。
つやつやと塗りたての黒い地に、細くこまかく書かれてある数字が、遠くから眺めると、まるで何かの絣《かすり》模様のように見えた。
一通り四辺形の面積を求める方法の復習をすませると、先生は、
「解らないところがあったら、何でもよくお訊きなさいよ」
と云いながら、低い背を出来るだけ爪立てて、びっくりするほど黒板の隅の隅の方から、応用問題を書き始めた。一応は仕来り通り質問を求めはしたけれども、何しろこれだけの事なのだもの、尋ねるがものはありませんねえと云う意味が、その声の調子にも態度にも、はっきり表わされていた通り、完く彼女等は一つの質問も持ち合わせてはいなかった。
縦と横とをかければ面積が出る。と云うそれだけのうちで、何を訊ねようにも種が無いので、先生が後を向ききりになると一緒に、今までひっそり閑としていた教室中には、急に小蜂のうなるような囁《ささやき》や、せわしい身じろぎの音が、一しきりサワサワ、サワサワと鳴り渡った。
一番後列の中頃に座っていた、肥ってお出額《でこ》の女の子も、皆について一息ホッとしたように両手を机の上に休ませながら、彼方向きの先生の尖った髱《たぼ》の先が、薄赤くホヤホヤにほつれて、無理に背のびをしたり、手を上げたりする度に小さく震えるのを、ぼんやりと眺めていた。
そして、考えるともなく面積のことを思っていると、フト何故縦と横とをかけると面積が出、その面積と云うものには厚みが無いと定まっているのかが、非常に不思議に思われて来た。
縦と横とをかけると面積が出ます。
そして、面積には、どんな時にでも厚みはないものです。
先に教えられた時にも、一人ずつ順繰りに繰返して云った時にも、不思議どころか、あんなにも明瞭に解り切っていたその根本が、今急に、あかの他人を見るよりもっともっと親しみのない、殆ど奇怪なことのように感じられて来たのである。
こんなやさしいことを、一人一人暗誦させられるのは極りの悪いことだとさえ思ったのにと思うと、彼女は自分でも思い掛けない心持がした。
けれども、どう考えても、何だか曖昧な、いい加減なところがあるようで堪《たま》らない。
縦と横とをかけると、面積が出る……。
誰がいつ、どこでそれを定めたのだろう。
そして、どうしてそれが永久の真理だと解って、皆が安心しているのだろう。
勿論彼女は、大人の学者の研究の偉大さに対しては、絶対的な尊敬を感じてはいる。
人間の体を組織している細胞の数が、四百兆あって、それだけを勘定するのに一千三百万年かかると云うことまで解らせた人のある話を聞いて、本当にされないようだった、新らしい記憶を持っている彼女は、縦と横とをかけて面積が出ると考えたことは、間違っているなどとは云おうとも思わなかった。
けれども、真個《ほんと》に納得が出来ない。
そして、最も妙なのは、あらゆる面積には厚みが無いということなのである。
先生は、面積に厚みは無いと、あれ程はっきり仰云った。そして、一言の説明もおつけなさらなかったのに、級中の皆はよく解っているらしい。
が、自分の知っている限りの面積には、いつでも、いつでも厚みがきっとついていたと云う「彼女自身の経験」を否定することは、どうしても出来なかった。
どんなに薄い雁皮紙《がんぴし》でも、お粥《かゆ》の上皮でも皆厚みは持っている。
自分の見たものの総てには、厚みがある。
けれども、先生の言によれば面積に厚みは、「無いもの」なのである。
何方かが間違って世の中の物を見ているのだ。彼女は大変不安になって来た。
若し、絶対に有り得べからざるものを、自分だけが見ていたとすれば、今までの知っていたことの半分以上は、皆滅茶滅茶になってしまう。
人並みの眼さえ持たない人間だった自分が、間違いだらけだと分った知識と一緒に取り遺されることを想像すると、彼女は怖くなった。何だか、居ても立ってもいられないような心持になって、大急ぎで出来るだけ高く手をあげた彼女は、とうとう、先生の振向いてくださるのを待ちかねて、椅子をガタガタ云わせて立ちあがりながら、
「先生!」
と声をかけた。
丁度その時、後向きのままで白墨《はくぼく》の先を減らしながら、何か別の考えに気を取られていたらしい先生は、少し周章《あわ》てて彼女の方を向いた。
「先生、
何故、縦と横とをかけると面積が出るんでございましょう。そして、何故厚みが無いんでございますか」
先生は、自分の耳を疑がうように少し体を前へ傾けながら、不純な表情を浮べて
「え、何ですか」
ときき返した。
自分の質問が通じなかったと思った彼女は、もう一度同じ言葉を繰返して、立ったまま先生の返事を期待した。が、先生はいつまで立っても口を利かない。
余り先生が黙っているので、それまでは彼女の質問を可笑しがって、肩をぶつけ合ったり眼配ばせしたりして笑を殺していた者達も、不安な予感に襲われて、教室中は人っ子一人いないような静けさになってしまった。それでも、まだ先生の口は結ばれたままである。何かいやなことがあったのだろう。
それは確かである。けれども、彼女は自分の言葉のうちに露ほども失礼な文句や心持の無かったこともまた、確信していた。
で、彼女はもう一度、前よりもっと丁寧に訊ねた。
「面積には厚みが無いと申しますけれども、誰かが地面を買うとき、幾坪と云って面積で買っても、若し井戸や何か掘るのに、地面の底まで穴をあけても、その泥を勝手に使っても、売った人は何とも云わないと思います。
そうすれば、その人の買った面積には、厚みがついているのでは無いでございましょうか」
暫く口を噤《つぐ》んでいた先生は、やがて明かに感情を害した語調で、
「縦と横とをかけると面積が出るのです。そして、面積に厚みは無いものと、昔から定まっています」
と断言すると直ぐ、まだ立ったままの彼女に、凍《し》み透るような一瞥を投げたまま、黒板の応用問題に就ての説明を始めた。
この時始めて、彼女は自分のこれほど一生懸命な質問が、下等な意地悪からの揚足取りとして受けられていたことを知ったとともに、先生が自分に対して与うべき解決を持っていないことを知ったのである。
自分の疑問は勿論満されなかった。
けれども、そんな下らない事を楽しみにしたり、喜んだりするほど、こじっちゃ、卑しい人間にも見られるのかと思ったら、口惜しいような悲しいような涙が、ひとりでに滲み出して来て、何を云う気も無くなってしまった。
始終病気に許り見込まれて、苦労がいかにも多そうに瘠せ切っている先生を一人ぼっち、困らせたり間誤付かせることに成功したところで、それが何だろう。
それほど自分は下劣な魂に生れついてはいない。情けなさと憤懣《ふんまん》が、喉仏のところで揉み合って、彼女はむせ返りそうな心持がした。
大人は始終自分達に、気の毒な人には親切にしろ、悪い心で物を考えてはいけないと、教えてくれる。
それは真個にその通りである。
そうするのは正しいことであると思っているから、自分はちっとも曲った心などは持つまいとし、また実際持たずに正直にすれば、今のように却って大人の方が、間違った、悪い心持で判断するばかりか、当然のことのように辛い心持にさせて平気である。
何故知らないことは、そのまま正直に知らないとして、この次のときまでに解らせようとしないのか。
正直と云うことが、ただ自分等が大人に叱られるときだけにほか通用しないものなのか。
彼女は、明かに一種の侮蔑を感じた。
大人の心情の価値の減退を感じた。
けれども、ただ感じるだけである。いかほど強く感じても、彼女の乏しい言葉では表現されなかったし、対者が大人だと云うこと――赤坊のときから、無条件で服従すべく馴らされている大人であり、また永く世の中に生きてい、たくさんの言葉を知り、自分等がどんなに熱心になって掛って行こうとも、都合のいいようにはぐらかすことを知っている大人であると云うことが――黙々のうちに一種の強制的な規制を彼女の感情に加えた。
彼女自身にとっては尊い名誉心を傷《そこな》われた不平と、一種の公憤に心を乱された彼女は、陰気な顔をして無言のまま、席に復すほかなかったのである。
自分さえ正しければ、何が来たって逃げまいと決心しながらも、若し母が今ここにいてさえくれたらと思うと、急に悲しくなって、危く涙が零《こぼ》れそうになった。
ところが、同じ日の昼の休時間のことである。
廊下の隅で、日向ぼっこをしていた彼女のところへ、当番だった三崎さんと云う子が来て、
「伊那田さん、飛田さんがどうかして先生に叱られてるのよ」
と云いながら、直ぐ傍に並んで腰をかけた。少し頭の足りない飛田さんが、口をあけてニコニコしながら、何か怒っている先生の顔を見ていたとか、
「もう少し立つと、きっとあの人指をしゃぶり出すに違いないわ。まるで赤ちゃんみたいにしゃぶるんだもの、可笑しいわ、私もう一遍行って見て来ようかしら」
などと云いながら、まるで何か嬉しいことに出会ったように、ハアハア、ハアハア云って笑った。
「何故叱られたの」
「何故なんだか私知りゃあしないわ、だけどさっき高山さんが云ってたわ」
「なんて」
「いや、私。貴女が怒るから」
「怒りゃあしないわ」
「きっと」
「ええきっと」
「ぢゃあないしょよ、
あのね、高山さんや山田さんがね、あれなんですって。今朝貴女面積のこと先生に訊いたでしょう。それをね先生は随分怒ってるんだって、だけど貴女はうっかり叱れないから、何を云っても黙ってる飛田さんに当ってるんだろうって。
だから何でもありゃあしないんだわ、ただの八つ当りなのよ。だけど真個に黙っててね。そいじゃあないと私怒られちゃうから」
云うだけ云って、笑うだけ笑うと、三崎さんはさっさと彼方へ馳けて行ってしまった。
けれども彼女は笑うどころではなかった。大変なことを聞いたと思った。
真個にそんなことがあるだろうか。
先生の八つあたり……。非常に不合理な、滑稽《こっけい》に近い矛盾を感じた。
けれども、そのくらいの事は考えられるだけ先生の様子は不機嫌でもありまた正当でもなかった。
自分のために――たとい自分は僅かの悪意も、不正な心情をも持っていなかったにしろ――自分よりもっと弱い、みじめな飛田さんが叱られていると聞いては、彼女の心は安らかでなかった。
まして、いくら不当な叱責を受けても、迫害を蒙っても、それに対して一言の抗弁も出来なければ、防禦も出来ない飛田さんを、放って散々いやな思いをさせて置きながら、自分だけノコンとしていることは出来ない。皆からたださえ馬鹿にされ、独ぼっちで味方のない飛田さんに、その八つ当りと思われるものが飛んで行ったと云うことのうちに、彼女の心を燃え立たせた或る卑劣さがあった。
若し飛田さんをどうかしてあげなければ、自分は真個に卑怯な、恥知らずに成り下ってしまうと思った彼女は、弾《はじ》かれたように立ちあがるなり、赤くなって二階へ馳けのぼった。そして、とっつけの教室をあけると、三崎さんの云った通り椅子に腰をかけている先生の前に、飛田さんが気抜けのような顔をして立っているのが目に入った。
「先生!
私
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