ような涙が、ひとりでに滲み出して来て、何を云う気も無くなってしまった。
始終病気に許り見込まれて、苦労がいかにも多そうに瘠せ切っている先生を一人ぼっち、困らせたり間誤付かせることに成功したところで、それが何だろう。
それほど自分は下劣な魂に生れついてはいない。情けなさと憤懣《ふんまん》が、喉仏のところで揉み合って、彼女はむせ返りそうな心持がした。
大人は始終自分達に、気の毒な人には親切にしろ、悪い心で物を考えてはいけないと、教えてくれる。
それは真個にその通りである。
そうするのは正しいことであると思っているから、自分はちっとも曲った心などは持つまいとし、また実際持たずに正直にすれば、今のように却って大人の方が、間違った、悪い心持で判断するばかりか、当然のことのように辛い心持にさせて平気である。
何故知らないことは、そのまま正直に知らないとして、この次のときまでに解らせようとしないのか。
正直と云うことが、ただ自分等が大人に叱られるときだけにほか通用しないものなのか。
彼女は、明かに一種の侮蔑を感じた。
大人の心情の価値の減退を感じた。
けれども、ただ感じるだけである。いかほど強く感じても、彼女の乏しい言葉では表現されなかったし、対者が大人だと云うこと――赤坊のときから、無条件で服従すべく馴らされている大人であり、また永く世の中に生きてい、たくさんの言葉を知り、自分等がどんなに熱心になって掛って行こうとも、都合のいいようにはぐらかすことを知っている大人であると云うことが――黙々のうちに一種の強制的な規制を彼女の感情に加えた。
彼女自身にとっては尊い名誉心を傷《そこな》われた不平と、一種の公憤に心を乱された彼女は、陰気な顔をして無言のまま、席に復すほかなかったのである。
自分さえ正しければ、何が来たって逃げまいと決心しながらも、若し母が今ここにいてさえくれたらと思うと、急に悲しくなって、危く涙が零《こぼ》れそうになった。
ところが、同じ日の昼の休時間のことである。
廊下の隅で、日向ぼっこをしていた彼女のところへ、当番だった三崎さんと云う子が来て、
「伊那田さん、飛田さんがどうかして先生に叱られてるのよ」
と云いながら、直ぐ傍に並んで腰をかけた。少し頭の足りない飛田さんが、口をあけてニコニコしながら、何か怒っている先生の顔を見ていたとか、
「
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