時にでも厚みはないものです。
 先に教えられた時にも、一人ずつ順繰りに繰返して云った時にも、不思議どころか、あんなにも明瞭に解り切っていたその根本が、今急に、あかの他人を見るよりもっともっと親しみのない、殆ど奇怪なことのように感じられて来たのである。
 こんなやさしいことを、一人一人暗誦させられるのは極りの悪いことだとさえ思ったのにと思うと、彼女は自分でも思い掛けない心持がした。
 けれども、どう考えても、何だか曖昧な、いい加減なところがあるようで堪《たま》らない。
  縦と横とをかけると、面積が出る……。
 誰がいつ、どこでそれを定めたのだろう。
 そして、どうしてそれが永久の真理だと解って、皆が安心しているのだろう。
 勿論彼女は、大人の学者の研究の偉大さに対しては、絶対的な尊敬を感じてはいる。
 人間の体を組織している細胞の数が、四百兆あって、それだけを勘定するのに一千三百万年かかると云うことまで解らせた人のある話を聞いて、本当にされないようだった、新らしい記憶を持っている彼女は、縦と横とをかけて面積が出ると考えたことは、間違っているなどとは云おうとも思わなかった。
 けれども、真個《ほんと》に納得が出来ない。
 そして、最も妙なのは、あらゆる面積には厚みが無いということなのである。
 先生は、面積に厚みは無いと、あれ程はっきり仰云った。そして、一言の説明もおつけなさらなかったのに、級中の皆はよく解っているらしい。
 が、自分の知っている限りの面積には、いつでも、いつでも厚みがきっとついていたと云う「彼女自身の経験」を否定することは、どうしても出来なかった。
 どんなに薄い雁皮紙《がんぴし》でも、お粥《かゆ》の上皮でも皆厚みは持っている。
 自分の見たものの総てには、厚みがある。
 けれども、先生の言によれば面積に厚みは、「無いもの」なのである。
 何方かが間違って世の中の物を見ているのだ。彼女は大変不安になって来た。
 若し、絶対に有り得べからざるものを、自分だけが見ていたとすれば、今までの知っていたことの半分以上は、皆滅茶滅茶になってしまう。
 人並みの眼さえ持たない人間だった自分が、間違いだらけだと分った知識と一緒に取り遺されることを想像すると、彼女は怖くなった。何だか、居ても立ってもいられないような心持になって、大急ぎで出来るだけ高く手をあげた彼女は、
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