ばかり姦通罪がきびしかった点も改正され、離婚に対する権利の平等、母親の子供に対する親権も父親と等しいものに認められるようになってきている。これは日本でつくられた憲法、民法、刑法上での大革命である。けれどもポツダム宣言を受諾した二年目の私たちの生活での実際で、こういう制度の上の平等がどこまで実現されているかということはなかなかの問題だと思う。改正憲法のお祭りは五月三日に日比谷で大仕掛に行われた。けれども、あの日台所で燻い竈の前にかがみ、インフレーションの苦しい家事をやりくって、石鹸のない洗濯物をしていた主婦のためには、新憲法のその精神がはっきり具体化されたような変化はなかった。今日は男も女も、それが地みちの生活をしている人であるならば、字づらだけでの男女平等や解放だけで民主主義というものはあり得ないということを痛切に感じて来ている。あらゆる日本の婦人が今日ほどの時間を台所にしばりつけられていて、どうして封建性からの脱却があるだろう。
 こういう現実に反抗して、字づらで示されている平等と民主化のぎりぎりのところまで自分たちの若い生活を拡げようとしている若い男女もあると思う。戦争中は人間らしいたのしささえ奪われて育った人たちは自由になったということ、民法で親の権利が削減されたということ、男も女も平等だわ、という考えを最も手近いところで表現しようとしているところがある。煙草をのむこと、お酒をのむこと、そとでどんなつき合いをしたってそれは自由、という考えかた。明治四十年頃に未熟であった日本の婦人解放論者たちが、まず自分たちの婦人の権利を示すシンボルのように考えて行ったそういう行動上の示威からはじまって、恋愛も結婚もすべての面で自分の思うとおりに生活していっていいのだという気持もある。ところがそういう「思うがままの生活」に近づいてこまかに眺めたとき、そこで若い女の人はほんとうに、自分が自分の運命の主人になって勝手気儘にに振舞えているのだろうか。ここに大きくふかい疑問がある。今日の世の中で勝手気儘に振舞うためには、それだけ金が要る。日本の労働組合は一生懸命に同じ労働に対する男女の同じ賃金を求めて闘かっているけれども、実際に婦人のとる給料はまだ男よりも少ない。しかし女の子の方が身なり一つにも金がかかる。絹の靴下は一足が八百円もして、それは二ヵ月しかもたないのだから。気儘に振舞う金が
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