されていることである。それを克服するためには、いまこそ婦人画家その他の能力が発揮されるように、男子の芸術家が協力してゆくべきである。けれどもそれが行われないから婦人画家たちだけの集りや催しがもたれて行くことになる。そして日本の社会としての弱点は大変のろいテンポでしか克服されない。
 婦人の実力がまだ低いから、社会的に経済的に、また政治的に平等であることは早すぎるという考え方は、ごく若い婦人の中にさえもある。私はそういう意見をもっている専門学校の女生徒に会ったことがある。これは考え深いことばのようであるけれども、実際は日本の社会全体の遅れをそのまま肯定し、女の人が才能をひしがれて一生を送らなければならない社会機構そのものを肯定したことではないだろうか。憲法と民法とが条文の上で男女平等といっているその実際の条件をこの社会の中につくり出してゆくことこそ、新しい意味での男女の平等な協力の中心眼目であろうと思う。
 民法の改正は明治三十二年頃福沢諭吉が婦人のために力説した議論であった。当時日本の資本主義は小規模ながら興隆期にさしかかっていて、日本の中産階級が経済能力を増してきていた頃、福沢諭吉がいうとおり、今日のブルジョア民法としての民法改正が行われ封建差別がとりはらわれたのならば、たしかに今のままの条文を適用されるような親の財産も、夫の財産も、娘たち、子供たち自身の財産もあり得たであろう。けれども今日金の値打が百分の一になり、まさに千分の一になろうとしているとき、どんな空想家が五人の子に一生の安定のために分けられる財産があると思っていよう。分ける財産に頼られないならば、自分のからだについた財産である社会的な勤労能力というものこそ保障されなければならない。憲法は、すべての人民が働くことができるといっている。それは半分飢え、絞られながら、働らかされる権利があり、失業させられてよいという意味ではないはずだ。すべての人は教育をうけることができるといわれている。これも人間である以上、二十四時間のうち十時間を労働に縛りつけられることはあり得ないということを意味している。人間は労働、休養、教育に二十四時間をわけてつかうのだから。
 学生と職場の人たちとは、生活の違いがひどいように自分たちでも思っている。けれども、今日学生の何割がほんとうに学校に行っているだろう。行けない学生は何のために学
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