の中で婦人部と青年部とはよく調和して活動できるけれども、大人の男子組合員とは役員の選出の点でも、議題を出す分量でも、いろいろなことで女の人がまだまだ不満をもった状態におかれているところがある。そして、そういう職場の気分は巧に傭主につかまれ、利用され、働くものの一致を裂かれ、要求を力よわいものにしてしまう。
学校でも共学をはじめた。そういう大学がいくつかある。その学生たちと話してみると、やはりそこでもまだ男女は十分共学されていない。大学などでは一種のアカデミックな社交性というようなもので綺麗ごとに共学されていて、たとえばアメリカの大学の社会科の女子学生と男子学生とが、夏期休暇中の共同研究として、浮浪者の生活調査をやるとか、女子の失業と売淫生活に堕ちてゆく過程の調査だとか、そういう現実の共同作業をするところまではいっていない。会合で討論して、代表を選出し、共同研究会をもつくらいまでのところしかいっていない。ほんとうにむき出しに自分たちを示すような勉強も調査もスポーツもされない窮屈さがのこっている。
昨日あたりから上野の美術館で婦人画家ばかりの展覧会が催おされている。芸術の世界で、婦人ばかりの絵画、あるいは婦人ばかりの文学というものはないものだと思う。それだのに婦人画家だけ集まった展覧会が婦人画家たちからもたれているということは、日本の画壇のどういう実際を語っているのだろうか。それは日本ではすべての組合や政党に婦人部というものがあって、それがまだ社会の事情から独特の必要をもっているのと似かよった理由があると思う。つまり今日の資本主義社会の個人的な経済競争の中で、中小工業者が苦しいとおり、婦人画家の経済上、芸術上独立的な生活というものは非常に困難になってきている。画家の生活全体が困難になって、ごく少数の大家――その人の絵をもっていれば、やがて値が出て金になるという、家屋敷を買うような意味で買われる大家を除いては、新進画家の生活はまったく苦しい、それは出版事情の最悪な今の文学にも、また音楽にもいえる。婦人画家が画家としてはたしてどれだけの力量をもっているかということはあらためて考えられなければならないけれども、かりに、その点でマイナスがあるとして、それというのもこれまで婦人全体の生活があまり差別的で、官立の美術学校でさえも女子の学生は入れなかったというような条件からもたら
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