見較べても、胸迫る感想があるのである。今日はどこ、明日はどこと見てまわって、書かれた文章が見るにせわしい調子をつたえているばかりでなく、見るべき場所、事柄の社会的自然的事情について作家たちの科学的知識の欠如していることは今日までの戦線ルポルタージュに顕著な一つの通有性となっている。縦に突こんで、現実が把握されていない。通州の事件について書いている尾崎士郎氏と山本実彦氏の文章の対比はこの点について教えるところがある。山本氏が持っているものは、どちらかと云えば政治家風な通であって、新しい内容での客観的知識、科学的知識ではない。それでも、まだ素朴な感傷でだけ結果的にそれにふれている尾崎氏よりは山本氏の記述の方が事件の背後の錯綜にふれ得ているのである。
作家が社会化し、大人になるということは単に踏む土と聞く音が変り、異常事の只中に在るというだけでは尽されない。その重大な文学的実験を、林氏は自身のルポルタージュで告白しているのである。
将来日本の文学に、ルポルタージュが増大して来るであろうということは、とりも直さず、動いてやまぬ社会は作家に益々より客観的に現実を観得る眼力を要求しはじめている
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