人間がそう云う心持を持って居るとしたら、その心持が戦争を起し、涙一つこぼさずに殺し合うのも亦当然では無いかと若しも云う人があったら、私は、敢然として否定しなければならない。
そう、人間は確かに祖国の土から、彼等の足を離す事は出来ない。人間である総ての者は彼等の祖国の土を思わずには居られない。
私は、日本人許りだと云うのではない。英吉利人だけだとは云わない。人間である。万人が万人の人間である。此の地殻の上に何処からか生れ出たものは、その出生の地を、彼等の魂のどん底から剥ぎ取る事は出来ないのである。
静かな夜の中に坐して、記憶の裡に蘇返る「祖国」に、慄えるような愛着と、叫び度くなる程の嫌厭と恐怖とを感じる時、私は此の感動が、果も無い空間から空間へと、反響するのを感じる。
私共は「日本人」だから「日本」を思うのでは無い。「米国人」だから、「米国」の土に涙を垂れるのでは無い。人間だからである。人だからである。名は約束である。日本と云うのも、支那と云うのも、又は英吉利と云うのも、丁度、数字が、太古からの約束である如く、只一つの約束に過ぎないのではあるまいか、
彼等が、そして私共が、地上に於て最初の呼吸をした其一点――地理的に、歴史的に或る伝統を持った、地上の其の一点が、総て生れ出た者にとって、忘れ得ぬ「祖国」と成るのである。
私が今斯うやって、双眼に涙を泛べながら、思いに沈んで居る時、遠い海を越え、野山を踰《こ》えた彼方の彼方の何処かにも、矢張り、私と同じ恐れと愛に慄えながら、彼等の「祖国」を思う人は無いだろうか。
我が友よ。我が愛する友よ。厳粛に心を鎮めて思う時、我――人間ほど「いとしい」ものが在るだろうか、又人間ほど「いとわしい」ものが又と在るだろうか。
私は、丁度、濡れそぼたれた獣同志が、互に身を寄せて暖め合うような、生身《なまみ》の愛と憎と惨めさを感じずには居られないのである。
考えて御覧なさい。
私共は、何時から人間の生活の、大らかな純一性を求めて来ただろう、そして又、此から先、何時までその燃えるような探求と努力とを続けて行かなければならないだろう。
太古の猶太《ユダヤ》人は、何の為に、如何《ど》う云う心の苦しみから、彼程熱く神を叫んだのか。
ギリシア人は。ローマ人は。そして、今漸々戦慄すべき大殺戮の武具を納めた数多の国々は――。
私共
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