無題(四)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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私は絶えず本を読まなければならないと云う心持がして居る。
一日の中一度も何の本も読まないで過ぎると、何だか当然取り入れなければならないものがすぐ手近かにあったのに、知らん振りをして見ない顔をして通った様な不安が起って来る。
日記をつけるときにたった二三字でも読んだものに対する感じのまとまって来るときは安らかな、自分の中にどこか確かな所の有る様な心持になる。
私の心には絶えず本に対する要求が絶えた事は無いらしくある。
けれ共ごく稀には、自分の日常生活の習慣に支配された様な形になって、純にその人の精神なり何なりに接せずには居られないと云う感じより、読まなくちゃあならないと云う謂わば一日中の手順を狂わせる心持悪さから一枚なり一枚なり読む事がある。
左様な時に必然的な強い要求の起って来ない――来て居ると思ってもそれは単にその想像に過ぎないものである事は疑いない。
斯様な心持になる事は決して、私一人の心持ではない。
多く物を読み知らなければならないと思うものが或時に於ては陥り易い欠陥であると思う。
読む本を数でこなして行く事は恐るべき事である。
そして、本を読めば必ず賢くされるものだと云う事も信じられる事ではない。
「後に来る者に」の中に、
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「或る所まで行った人が或る本を読むと天啓にふれた様な気のする時はある。
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と云う事があったがそれは真理である。
偉大な人の作品に触れて感激出来るのは、その著者が彼の手と頭を以て表わした様々の精神作用の根元にさかのぼり得る丈の頭がなければ出来難い事である。
自分達が「或る処まで行って居る人」にならなければならないのである。
けれ共自分自身に自分がどの位まで行きつつあるかと云う事を知らせるのは必要な事ではあるけれ共或る意味に於ては気味の悪い事でもある。
人間が自分の真価の片はじでものぞけば第一に得るものは非常な淋しさ、悲しさである。
自分を観てそれを感じ無いならまだ明かな眼の所有者ではない。
けれ共その悲しさ。
その淋しさが更に強い力で我々を生育させ確かな心で自分の進もうとする道をたどらせる様になる事は
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