その女と小田原へ行ったというところへ来たとき、お清は、
「ああ、みのちゃん、お前ちょっとこれ沸しといで」
と瀬戸引の薬罐《やかん》をぎゅっとみのえの手に持たせた。
「お願いだから、あっちへ聞えるように話してよ、ね、油井さん」
 みのえは、その続きを聴かずにはいられない。暗闇の中へ座っている彼女の神経は、だから瓦斯の焔そっくり新鮮で色が奇麗で、燃えたつようなのだ。
「じゃ、それっきりお嫁に行っちゃったんですか」
「そうですとも」
「……でも余りだわねえ、そいじゃ」
「私は淋しい人間だというわけでしょう?」
「…………」
 あっちで二人が沈黙したら、その空気が徐《おもむ》ろに狭い家じゅうに拡った。みのえは、いかにも夜の更けたことを感じ、あっちの灯の明るい、油井の白いソフトカラアーを浮立たせている部屋の沈黙を甘美に思った。
 するのは瓦斯の焔が噴《ふ》き出す音ばかりだ。ピラピラする透明な焔色を見守り、みのえは変に夢中な気持になって湯の沸くのを待った。彼女には、この夜ふけの、恋物語の後の沈黙が異常に作用するのであった。じかに板の間にいて寒さも感じない。
 薬罐の底がクトンとずるように鳴った。

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