空にある白い雲が近くに感じられた。みのえの体のまわりにある草の中に、黒い実のついたのがあった。葉っぱが紅くなったのもある。一匹のテントウ虫が地面から這い上って、青い細い草をのぼった。自分の体の重みで葉っぱを揺ら揺らさせ、どっちへ行こうかと迷っているようであった。地面の湿っぽい香と秋日和の草の匂いとが混ってある。
 みのえは、涙を落しそうな心持で、然し泣かずそこに足をなげ出して虫や草を眺めていた。少し病気になったようにみのえは奇妙な心持であった。母親も油井もいやで、がっかりして、風も身に沁みる、空の高さも、そこに飛び交う蜻蛉《とんぼ》も身に沁みる。魂が空気の中にむきだしになっていた。
 長い時間が経った。
 みのえは、背後で荒っぽく草を歩みしだく跫音《あしおと》を聞いた。みのえは自分の場所からその方を見たら、一人の十六七の小僧が立って放尿していた。白いシャツに腹がけをしめ、何故か脚の方はすっかり裸であった。
 みのえは直ぐ正面を向いた。
 小僧は草をこいで段々みのえの傍に来た。一歩一歩近づくのが判ったが、みのえは恐怖で痺《しび》れ体を動かすことが出来なかった。眼尻を掠め、股まで裸の二本の脚と穢《きたな》い体の一部が見えるくらい傍によった時、小僧は低い震えるような声で、
「――……」
と云い、みのえの正面へ立ちはだかろうとした。みのえは、のっそり立ち上り、小僧を睨みつけると、物も云わず片手にキラキラ閃くものを振り翳《かざ》し小僧に躍りかかった。
 気がついた時、みのえは元よりずっと草原の上の方に跳ねとばされていた。四五間下の方に、小僧も倒れた。彼等は互に睨み合いながら、獣のように起き上った。みのえは、後じさりにそろそろ上の坂の方へ出ながら、組打ちした場所と思わしい辺をちょいちょい見た。リボンで帯につけていたエ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァーシャープを彼女は振り廻したのであったがそれが環のところから※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《もぎ》れてどこへか行ってしまった。
 小僧は、じろじろみのえの方を見ながら草をこいで草原の縁へ出、つぎの当った股引《ももひき》をはき始めた。その時、路の彼方に大人の男が現れた。パナマの縁をふわふわさせながら。――
 みのえは、坂を下り出した。子供の微かな叫び声と、赫土の空地が行手にある。あたりは先刻《さっき》の通り静かで
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