翻訳の価値
――「ゴロヴリョフ家の人々」にふれて――
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)屡々《しばしば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]をつけたり
−−
日本の知識人の読書表には、実に翻訳がどっさり入りこんでいると思う。文学書にしても、日本ぐらい月々幾冊もの訳書が出版されているところは余り無かろうと思う。アメリカなどは、どっちかと云えば翻訳書が比較的どっさり出る方だろう。新しくて若いアメリカの文化はヨーロッパの文化の富から吸収するべきものを少からずもっているわけだし、ああいう社会生活の習俗では、イギリスの読書人たちのようにフランス語やドイツ語の知識を不可欠に考えてもいないだろうから、特にフランス文学の翻訳などは相当広汎によまれることが想像される。
ソヴェトもきっと随分どっさりの翻訳書を出版しているだろうと思う。文化の各部門に亙って代表的な古典だの全集だのが翻訳されて、夥しい部数で一般の日常生活の中へもたらされている。ここでは、文盲退治で字がよめるようになった人たちがいきなり最高の古典にふれて行ってトルストイの小説をよむと同時にゾラをもよむという独特旺盛な興味ふかい文化摂取の道を辿っている。
日本に翻訳書が沢山出るということの背景には、やはり日本の特殊な地理的条件につれて社会の特徴が見られるのだと思う。東海の封じられた小島としての条件のなかで、我々の祖先の秀抜な人々が、真理を求め、知識をさがして生命の危険さえ冒しながら粒々刻苦して、偶然渡来した医書や物理書の解読や翻訳に献身した努力と雄々しさとは、前野良沢や杉田玄白が日本で最初の解剖書となったターヘルアナトミアの翻訳に賭した心血の高貴さに語られている。日本の暁として翻訳の仕事は寧ろ悲壮な姿で開始されているのである。
一二年このかた、出版にもインフレ景気ということが云われるようになった。文学書の翻訳も溢れているが、果してそのうちの幾割が、文学的な再現の成功までは言わず、少くとも信頼に足りる仕事なのだろうか。
訳しにくいところはどしどしとばしてしまう。そんな話も屡々《しばしば》きく。文学作品のいのちは、訳しにくいような表現のなかに案外ふくまれているとも云えるのだから、もしそうだとすれば、私たちは読者として、云わば一番その作者らしくその作品らしい精髄はぬきすてたあとの、至極常識的な語感でもわかる部分だけ買わされ、よまされているということになるのである。
ブルージェの「死」、「家」が流行したらしいけれども、あの訳について、日本の文章としてだけよんでも、何か腑に落ちないものがあるを感じた人はなかっただろうか。概して今日の読者は、作品をそんな風に感じてよんだりしなくなっていて、題だの筋だので買うとでも云うのだろうか。
文化の粗末さについては、作家もいくらかの責任を感じなければならないと思った。せめて文学書の翻訳に対して、作家は作家として、もう少し責任ある関心をもち研究や発言もして行かなければならないのだと思う。さもないと、読者は、フランスの世界史的意味の退敗をさえ、ブルージェが夙《つと》に「家」で警告していたとおり、家の観念の崩壊がフランスの今日をあらしめたというような、牽強も甚だしい広告にもつられなければならない。いい加減の訳をよまされた上、景品として世界的現実の劇画まで与えられることは、私たちとして辞退したく思うのである。
体位の向上がひろく云われている以上、精神の体位を向上させることも、現代の任務の一つな筈である。
そんなことを考えていた折から河出書房版、新世界文学全集第十一巻、シチェードリンの「ゴロヴリョフ家の人々」が配本されて来て、非常に興味をひかれ、今三分の二ほどよみ進んでいる。
この小説の訳者は、少くとも原文に忠実であろうとするあらゆる努力を惜んでいない。意味に忠実であるばかりでなく、シチェードリンのむずかしい文章の脈うちの特徴や、作品人物の性格的な物言いの癖までも日本文のなかに捕えようと試みていて、そのために、一応「わが友」と書いた字のよこへ、お前、お前さん、君、とふりがなをつけて読ますことも敢てしている。こういうこまかな表現にこそ、外国語のニュアンスの移植のむずかしさがひそめられているということを感じさせる。(しかし、こういう工合に二重に重ねる字のつかいかたについては、疑問がのこされているが)
それらの努力の窺《うかが》える真面目な訳であるのだけれど、読んでゆくうちに、訳文全体の調子が、一種の低さを感じさせるのは、何故だろう。何となし、訳文の精神とでもいうべきものが、もう少し高められていたら、どんなに完璧な芸術のよろこびが感じられただろうと思え
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング