たちに一層親愛な暖さを感じさせる。そこには、仄かに父が自分の結婚や家庭や子供たちの教育について抱いていた若々しい希望というようなものが語られているから。
だけれども、もしかしたら、これを書いたのは叔父の省吾という人ではなかったかしら。この人の字癖を知らないけれど、父とは二つか三つ年下の弟で、高校時代にふらりと支那へ行って、そこで一年ほど何かの学校の先生になっていたことがあるというような気質の人であったそうだ。烈しい一図な天性で、東大を卒業するという年に、皆の手をふり切ってアメリカへ行って、やがて宣教師になってしまった。明治三十九年頃かえって来て程なく中耳炎でなくなった。
若い嫂であった母を対手に、子供のための本を書くことを計画して、その思いつきは折から父が外国へ出かけていて留守中だった母をもかなり熱心に動かしたらしい。耳から頭へ大きく白く繃帯をかけた、どっちかというとこわい顔の大柄の叔父の病床のわきで、母は叔父の口述する話を書きとったりしてもやったらしい。けれど、この計画は到頭実現しなかった。それというのは、何しろこの省吾という人は、鱗のない魚はたべないというほどのキリスト信者であったから、子供のための本にしろ、そこに神だとか罪だとか、天国とか地獄とかをぬきにしては物を云うことが出来ない。「神の大いなる日」という本をこの人が書いていて、それにはこまかい銅版刷で世界の終りの日の絵が插画になっているという仕儀である。
母には、天国地獄というものさえ奇怪だのに、まして、叔父の云うことをきけば、親と子とさえ、信仰の有無で最後の審判の日には天国と地獄とへ引きわけられなければならないというに到っては、迚もそのような信仰をありがたがることは出来ず、ひいては、自分も手つだってこしらえる子供の本が、そういう考えで作られてゆくことにも承服しかねたらしい。段々二人の間に議論がおこって来た。そして、どちらも譲らなかった。本の計画は中絶したまま省吾叔父は亡くなった。日本へかえって亡くなるまでどの位の月日があったのだろうか。ほんの僅であったように思う。私が小学一年の頃で、駒本小学という学校の門のところへこの叔父が迎えに来ていてくれたことがある。大きい大きい大人の男が、髪を長くして肩のところ迄下げているというのは、何と珍しく、少し怖しく、それを見てびっくりする友達たちに愧しくきまりわるいよ
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