半封建的資本主義社会体制への移行であることを知っていなかった。
「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という人権のめざめにたって動き出した明治初期の積極的な婦人たちは、キリスト教教育による封建社会への批判と習慣の改良をその中心とした。そして文学よりはまず「実学」を必要とした当時の気運にしたがって婦人の活動は新生活運動の形をとった。夫人同伴会、婦人束髪会、婦人編物会、矯風会をはじめとして、日本各地に生れた各種各様の婦人会は、男女同権の思想を基礎にして、ピューリタン的な「家庭の純潔」をめざした。婦人の自主的なこれらの動きは、一八七二年の人身売買禁止法、男子に等しい義務教育令の制定や、福沢諭吉の一夫一婦論、廃娼論とならんで、森有礼が『明六雑誌』に「妻妾論」を書いて当時のいわゆる「権妻」の風習に反対したことにも通じている。しかし婦人の半奴隷的な境遇はつづいて、全人民による選挙と国会開設を求める自由民権運動に参加した十九歳の岸田俊子(のち自由党首領中島信行・長城の夫人。号湘煙・中島飛行機製作所長中島知久平の母)や、小学校の代用教員であった影山英子(のち福田英子『妾の半生涯』改造文庫)など
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