政治・文化の創造における労働者階級の任務と、その勝利の道があきらかにされ、アナーキズムとコムミュニズムとの区別もはっきりして、一九二八年には雑誌『戦旗』が発刊された。そして蔵原惟人のプロレタリア・リアリズムへの道が、プロレタリア芸術の創作方法の基本的な方向をしめすものとなった。
『戦旗』には徳永直「太陽のない街」小林多喜二「一九二八年三月十五日」中野重治「鉄の話」そのほか、プロレタリア文学の代表的作品がのりはじめた。「キャラメル工場から」という作品で、窪川(佐多)稲子がプロレタリア婦人作家として誕生したのもこのころであった。赤いマントをきて、キャラメル工場へ通う十三歳の少女をかこむ都会の下層小市民の不安定な生活と、幼年労働の現実が、リアリスティックで柔軟な筆致で追究されているこの作品は、当時のプロレタリア文学に一つの新しい、しんみりとした局面をひらいた。つづいて、稲子は、「お目見得」「レストラン・洛陽」などにおいて勤労する少女、女性の生活を描いた。労働者階級の意識のたかまりと組織の成立とともにプロレタリア文学運動が進出するにつれて、彼女の創作は「四・一六の朝」「幹部女工の涙」(一九三〇)「別れ」(一九三一)「何を為すべきか」(一九三一)「進路」(一九三三)「押し流さる」(一九三四)と成長して行った。
日本プロレタリア作家同盟には、窪川稲子のほか松田解子・平林英子、詩人の北山雅子(佐藤さち子)・一田アキ・木村好子・翻訳家松井圭子、一九二七年に「伸子」を完結し、その後ソヴェト同盟へ赴いて一九三一年からプロレタリア文学運動に参加するようになった中條百合子。ロシア文学専攻の湯浅芳子。まだ作品をもってあらわれていなかったが、『戦旗』のかげの力として大きい貢献をしていた壺井栄などがあった。『戦旗』がそうであったように『ナップ』の周囲にも、日本全国の労働者階級の文化・文学的欲求が反映されていて通信・投書などにあらわれる婦人の執筆者は、生産の各部門と、各地方にわたった。一九三一年に、『婦人戦旗』が発展して『働く婦人』が日本プロレタリア文化連盟から発刊された。この編集は、連盟に加っていたプロレタリア演劇・美術・音楽・映画・教育・エスペラント・医療各団体からの編集員によって行われたのであった。『種蒔く人』の執筆者であった山川菊栄・神近市子などは、それぞれの政治的立場から、プロレタリア
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