うとせず単に生活上の便宜として日常へその成果をとり入れているだけの人々がその社会の大部分をしめているとしても、やはりその社会の文明の程度をいうことはできる。アメリカの文明の程度というとき、ニューヨークの郊外にトタン屑をふき合わせた小舎がけで辛くも生存している失業者たちの生活にテレヴィジョンが入っていないから、という点ではいわれないのである。
けれども、文化というと、それぞれの文明の諸相が、その社会の各個人たちの精神や感覚にどう作用し、どのようにとり入れられ、それらの総和がどんな本質でその社会へ再び発展的なものとして放射されているかという点にふれてくると思う。それ故文化という面からいえば、前の例をとってアメリカの人たちがそういうトタン屑をふいた小舎で生活しているような人間群を自身の文明社会の内にもっているという事実について、どんな感じをもち、どんな方向でその悲惨を根絶させようとしているか、あるいは平気で自身の満腹に納っているかというような相異が、文化の本質の相異として現れてくる。
文明と文化との相互的な関係は実に骨肉的であるし、おどろくべく複雑だと思う。婦人の生活、婦人の文化的な創造
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