上で、婦人雑誌を対象とする婦人読者の層というものが現れたらしく思える。明治の初年、巖本善治氏の『女学雑誌』がでていた時分は、特別に婦人の読者というかたまった存在はなかった。その時代の女性教育の目やすは溌剌とした希望をたたえてひろく高く、たとえば語学の勉強にしろ他の勉強にしろ解放されている部分では、男と女との程度の差をつけずに勉強した時代であった。人間として男と女とはひとしいものであり、ひとしくあるべきものというたて前で勉強が励まれていたから、少数の前進的な若い婦人たちは、学問の上で女子用読本を使うことを知らなかったので、いわゆる砂糖をわった意味での婦人雑誌というものを必要としなかったのは自然である。『女学雑誌』はそれゆえ、娯楽的な家事的な要素はもたなかった。「学問のすすめ」(福沢諭吉)風な、文芸思想を主としたものであったと思う。
女学校令が日本では第一期の黎明期が終って、その黎明期の性質に対比すれば反動の時期にはいったときの要素に立って、婦人はよき家庭の主婦として日進月歩の日本の社会に働く男をよくたすけなければならない、という必要の範囲で制定されたことは、若い婦人の読者の数を一般的に
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング