婦人の読書
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#地付き]〔一九四〇年十月〕
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あらゆる面で婦人の読者がふえてきているのが、この頃の日本のありさまだと思う。二三年来、その率は急に高まっているだろう。出版のインフレーション景気ということがいわれ、書物の氾濫につれて、とくに文芸の範囲で婦人の読者の数はましていると思われる。そういう一般の傾向は今日誰の目にも明かに映っているのだが、それと同時に、その現象が文化の向上のためにも婦人の精神の真のゆたかさのためにも大いによろこばしいこととして、そのまま肯定されきれない何かのニュアンスをふくんでいるというところも、現代の性格であると思う。
何かの統計でもあったらきっとさぞ面白いだろうと思うが、これまでの日本で、明治以来今日まで婦人の読者の数はどんな時期どんな時代に増大し、読者としてその質を変えて来ているのだろうか。
だいたい明治三十二年、女学校令というものができてから後、女学校をでた程度の若い婦人たちを目標として『女学世界』などがでてから、ジャーナリズムの上で、婦人雑誌を対象とする婦人読者の層というものが現れたらしく思える。明治の初年、巖本善治氏の『女学雑誌』がでていた時分は、特別に婦人の読者というかたまった存在はなかった。その時代の女性教育の目やすは溌剌とした希望をたたえてひろく高く、たとえば語学の勉強にしろ他の勉強にしろ解放されている部分では、男と女との程度の差をつけずに勉強した時代であった。人間として男と女とはひとしいものであり、ひとしくあるべきものというたて前で勉強が励まれていたから、少数の前進的な若い婦人たちは、学問の上で女子用読本を使うことを知らなかったので、いわゆる砂糖をわった意味での婦人雑誌というものを必要としなかったのは自然である。『女学雑誌』はそれゆえ、娯楽的な家事的な要素はもたなかった。「学問のすすめ」(福沢諭吉)風な、文芸思想を主としたものであったと思う。
女学校令が日本では第一期の黎明期が終って、その黎明期の性質に対比すれば反動の時期にはいったときの要素に立って、婦人はよき家庭の主婦として日進月歩の日本の社会に働く男をよくたすけなければならない、という必要の範囲で制定されたことは、若い婦人の読者の数を一般的に
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